ゼミ生コラム

9・10期(2006年度)

執筆:2006/11/25 先憂後楽 H.K41
最近のイジメ問題は、少年法にも影響を及ぼしている。

今月中旬、衆院では衆院は少年犯罪の凶悪化、低年齢化に対応するための少年法改正案の審議に入った。
政府・与党は、少年法改正案の今国会成立を目指しているが、野党は「少年の更生には福祉的な支援が必要で、警察の介入は問題だ」などとして法案に反対している。
改正案は、警察官による調査権限を明文化し、捜索や押収などの強制的な調査も可能とする。
また、14歳以上となっている少年院送致の年齢下限を撤廃し、家庭裁判所が必要と認める場合は送致できるようにする。

現行の少年法は敗戦後、GHQの刑事政策担当のルイスという人の主導で1948年に制定された。
このルイスが、児童福祉の専門家で、犯罪を犯した少年には厳罰より矯正をという理想主義的な考えの持ち主であり、彼の主張が通った形で、1922年に制定された旧少年法が改正された。
これにより、犯罪を犯した少年については保護主義がとられるようになった。
当時は終戦後身寄りのない孤児が生きていくために盗みを繰り返すという事件が多発しており、彼等に厳罰を科すには忍びないという事情もあり、彼等を社会復帰させるためにも、ルイスの主張は理解できる面もあったといえる。

しかし時代は変わり、食うに事欠いて仕方なく盗みに走る少年は激減し、代わりに遊ぶ金ほしさの恐喝や殺人、己の欲望を満たすための薬物、強姦等、犯罪の質が変化していった。
1989年に起きた、東京都綾瀬でのコンクリート殺人事件、すなわち多数の少年達による一少女への輪姦殺人事件についても、少年法の壁が立ちはだかり、凄惨な殺人に対する応報刑としての刑罰を課すことができなかった。
またルイスが法律に疎かったせいで、刑法での責任年齢が14歳以上なのに対し、少年法で家裁の審判を受けるのが16歳未満というダブルスタンダードが生じ、これがつい最近の改正まで黙認されてきた。
法律を知っていて、自分は少年法で守られることに気付いている悪ガキによる犯罪の多発に、少年法の欠陥が絡んでいないとは言わせない。

日本に少年法を置いていったアメリカも、少年犯罪の凶悪化に伴い、厳罰主義に傾くようになった。
イギリスでは殺人を犯した10歳の少年の名前を公表するなど、厳しく対応していった。
少年は可塑性に富むという言説は確かに的を得た部分もあろう。
窃盗や薬物のようなちょっとした悪ノリと、恐喝や殺人のような重大な犯罪とを一緒にして論じるのはおかしい。
法律が甘いから悪ガキがつけあがるという点も否定できない訳で、後者のような重大事件に関しては、年齢関係なく検察に逆送すべきなのではないか。
そして国民に正確な情報を与える意味でも、加害少年の名前も公表すべきだろう。
現状では加害少年はいずれ出てくる訳であるし、公表される前にネットで個人名が流れてしまうと興味本位での情報が錯綜し、万が一冤罪だったときにどこに責任を課すかが曖昧になるという恐れもある。
執筆:2006/09/22 てんとうむし
私は、子供の頃から星を眺めるのが大好きだった。小学生の頃、晴れた日にはいつも望遠鏡で天体を見ていた。

地元の科学館に通いつめ、天文関係の書籍を読み漁っていた時期もある。夜更かしが苦手な私だが、星を見るとなったら一晩中起きていられる。

沖縄合宿で糸満市から眺めた星空は、とても美しかった。満天の星とまではいかなかったが、東京の空とは全く違う。
空に夢中になって歩いていたせいで、どぶに落ちてしまった。情けない話だが、それほどに魅了された。
久高島に行った10期生からは、さらに素晴らしい星空を見ることができたと聞いた。
「宝石をちりばめたような」と形容できる空を、私もいつか見てみたいものである。

真っ暗なところで一晩中空を眺めれば、数千の星を目にすることになる。
しかし、それは地球から見ることの出来る、宇宙のほんの一部の星々の光にすぎない。
宇宙は遥かに広大なのであり、数え切れない星がある。地球は、1000億個を超えると考えられている銀河の中のひとつに含まれている。
地球の存在する銀河系の中だけで、2000億個の星があるといわれている。
宇宙にはいったいどれだけの数の星があるのだろう。地球は、そんな無数の星のなかの一つにすぎない。

ところが、高名な天文学者のカール・セーガンが著書の『惑星へ』で指摘したように、人間は広大な宇宙の存在を忘れ、地球を、ヒトという種を、自分の国を、自分の所属する集団を、そして自分を中心として物事を考えることが常である。

このために、はるか昔から、地球上では領土や、財や、名声を求めて幾多の血が流された。多くの尊い命が失われた。
「自分以外」や「自分たち以外」を排斥する結果として、憎しみを作り出してきた。

宇宙的スケールで考えると、そのような殺し合いはとても虚しく思えてくる。宇宙の中で点にすぎない地球上で、人類が貴重な生命を奪い合うことに、どれだけの意味があるのだろうか。想像を絶する広さの宇宙で、同じ星に同じタイミングで生存するという、奇跡的な邂逅を果たした人間同士が殺しあうことは馬鹿げている。
ちっぽけな地球で誰が覇権を握ろうとも、宇宙は何も変わることがない。

世界は今、戦争ありきで動いている。平和を希求する心は多くの人が持っているはずなのに、多くの国が武器を開発し、仮想敵国に爆弾をばらまくシミュレーションをする。それは人間が労力を注ぐべきことだろうか。

平和班の一員として取材を終えた帰り道、夜空を眺めながら、そんなことを考えていた。
執筆:2006/05/14 てんとうむし
東京へ出てきて、もう2年以上たつ。私は、入学以来ずっと、雨の日以外は自転車で通学している。毎日同じ道を走り続けることは、私にとっては退屈ではない。運転中に感じる微妙な風のにおいは、建物だらけの東京においても、季節を感じさせてくれる。同じ道を走り続けるからこそ、変化にも敏感になってくる。実に楽しいものだ。

しかし、そんな自転車通学を続けてきて、どうにも気になっていることがひとつある。それは、携帯電話を使用しながら歩く人、自転車や自動車を運転する人がたいへん多いことである。大学と家を往復する間に、必ず何人かは見かける。メールを打ちながら帰宅する高校生、誰かと電話しながら自転車を走らせるサラリーマン風の男。ついこのあいだ、左手でベビーカーを押しながら、右手でメールする母親を見た。ここまできたか、という感じである。このような人の存在は、私を大変暗い気持ちにさせる。
率直に述べるならば、彼らは非常に邪魔であり、危険な存在である。大抵まっすぐに進まずに道をフラフラしているし、信号に目をやることすらなしに赤信号の交差点に進入する輩もいる。画面に夢中で、交通に気を配ることができていないのである。

 自転車を運転していて、このような人が前方にいたら、またか、と思う。ノロノロフラフラ運転(または歩行)につきあっていると遅刻してしまうので、大抵は追い越そうとする。しかし、道路が狭いこともあって、安全な追い越しはなかなか難しい。しかも、やむをえず警鐘をならしても、自分のことに夢中で、知らん顔でメールや通話を続けるのである。決して自分の周りの状況を確かめることはしない。たいがい私は減速して次の交差点まで辛抱し、厄介者をやりすごすことになる。安全の為ならやむなしだが、納得できない気持ちになる。
携帯電話に依存している人々は、自分の命も他人の命も危険にさらしている。交通事故の中でも、運転中(歩行中)の携帯電話使用による不注意から生じたものは、ひとりひとりが自覚すればゼロにできる。絶対に避けられるはずのものだ。しかし残念なことに、毎年これが原因で事故がおこっている。危険性は皆が認識しているはずなのに、自分は大丈夫、と思う人がたくさんいる。その甘い考えが、どれだけ多くの人々の命を奪い、身体や心を傷つけてきたことか。尊いものが、失われてきたことか。
彼らは大声で話すことが多く、携帯電話での会話が嫌でも耳にはいってくることがある。それらの内容は、わざわざ通行の途中で、他人を妨害してまでする会話ではない。家に帰ってから、ゆっくり電話すれば良いじゃないの、と思うものばかりだ。そんなことのために、私を含めた多くの通行人が迷惑している。どうしても道路上で電話をする必要がある場合にだけ、邪魔にならない場所で、立ち止まって、静かにすれば良いように思う。
と、ここまで散々携帯電話の使用を悪く言ってしまったが、全否定しているわけではない。「使い方さえ誤らなければ」便利なものだとは思う。最近は公衆電話の設置台数の減少が著しいこともあって、私自身必要性を感じる機会も増えた。しかし人によっては、電話と一緒に、自分への甘えも携帯しているのではないか。その結果として命が軽んじられることは許されない。電話と一緒に携帯するならば、他人への思いやりと交通安全への意識にしていただきたいところである。毎日こんな風景を見ていると、自分が携帯を使えば、知らないうちに誰かが嫌な思いをするのではないかと考えてしまう。私が未だに携帯電話を常用しない理由のひとつである。