ゼミ生コラム

15・16期(2012年度)

 

学ぶということ

 

 執筆:2013/03/27 ARATA

 昨日、早稲田大学を卒業した。早稲田生としての5年間が終わった。人よりも一年長いのだけれどそれでもやっぱり短い大学生活だったと思う。ただただ楽しかった大学生活だったからだろうか。それともやり残したことが多いと感じるからだろうか。

 早稲田生活を通して僕は何が変わったのだろうかと最近考える。この5年間で大事だと思えること、大切にしたいものは何度も変わった。実は、昔発表が辛くてゼミを辞めたいと思ったことさえもある。それでも続けて来れたのは、ゼミを卒業していった先輩達が眩しかったからだ。ゼミの先に何があるのだろうかと知りたかった。

 だから、この一年はゼミに必死に取り組んだ。ゼミの活動を通して、自分の変化を知るために。大学生活を振り返る意味での大学改革班、留学で体験できなかった震災後を振り返るための福島復興班、5年間考え続けた問題である「外国人との関係」を考える外国人児童教育班、2度目の沖縄合宿では2年前に行きそびれた八重山を訪ねた。最後に、今の日本の変化と自分の立ち位置を考えるために日米安保と集団的安全保障班を結成した。

 やりたいことを思いっきりしようということだけは心掛けた。3年生の頃はとにかく無難にこなそうとしていたゼミが、5年生の一年は楽しくて仕方がなかったのはそのせいだと思う。僕が先輩達みたいに眩しくなれたかは正直怪しいと思うけれど、ゼミを楽しんでいたことは後輩達にも伝わっていたみたいだ。卒業コンパで後輩もらったメッセージには楽しそうだったという言葉を沢山もらった。楽しさが少しでも伝わっていたことはとても嬉しい。

 そう、学ぶことは楽しいのだ。そして、学んだことを人に伝え、さらに深めていく場があるということは本当に幸せだ。学ぶことは、決して机の上だけでするものではない。人に会いに行ったり、土地を訪ねることも大切な学びの手段だ。そして、例えとして適切か分からないけれど、何かを知るたびに、発見するたびに、空を飛んでいる様な気分になる。世界のことがもっとよく見える気分になる。そうすると、もっと高く飛んで、世界をもっとよく見たくなる。学ぶということにはそういう意味があると思う。

 だからこそ、卒業したとしても学ぶことをやめることはないだろう。この先もずっと。まだまだ広くて深い世界をもっと知りたいから。ゼミを終えた先にあったのは、僕にとっては学ぶことの楽しさだったのだと思う。これは僕にとって変わることのない軸だ。学ぶことは決して楽しいことばかりではなく、ときに辛いこともある。それでも、世界を知りたければ学び続けなければならない。だからこそ、迷ったり、壁にぶち当たったりしたときは、8号館310教室を、そしてゼミでのことを思い出したい。「もっと楽しめ!」と叱咤してくれている気分になれるから。

 

 

始まりの日

 

 執筆:2013/03/08 Chiaki

 

過ぎ去った日々。

私は何をするためにここに来て、何をしたくてここを去るのか。

 

5年前のちょうど今頃。

時々「日本」ではなくなる場所から、「日本」という国の中心であるこの場所に出てきた。

すべてのものが目新しく、刺激的であると同時に、多くのものがいたるところで、流れに乗り遅れまいと、焦り、急ぎ、周りを押しのけ、進んでいた。

 

最初に驚いたのは「一列に並ぶエレベーター」。

私の故郷では、エレベーターには当然のように横並びで乗り、上階に到着するまでの間、ただただゆんたくしていた。急ぐ必要もなかったし、そのことで怒る人もいなかった。

 

冬の寒さにもどうにか堪えた。コートなど必要なく、一粒の「雪のようなもの」がニュースになるような場所からきた私にとって、時折積雪もあるこの場所の冬は冬眠への誘惑に負けそうなほどに辛かった。

 

桜も違う、夏の暑さも違う、雨のにおいも違う。

無数の違いに戸惑い、少しずつ染まり、そして慣れていった。はずだった。

しかし、やはりというべきか、私にとっては少し困難であったようで、在学中には多くの人たちに迷惑をかけた。本当に辛いと思うこともあったが、周りの人たちが支えてくれた。

 

そしてこの春。

人より少し時間はかかったものの、私もついに早稲田大学法学部卒業の日を迎えられることになった。

 

始まりの場所と旅立ちの場所が同じというのは素敵なことだ。

5年前の入学式と同じ場所、ほぼ同じ時間で行われる卒業式。

違うのは、少し年を重ねた私たちと、その装いだけ。

 

あの日、何を思いながらそこにいたのだろう。

来る日、そこで何を思うのだろうか。

もうすぐ、新しい始まりの日がやってくる。

中心

執筆:2013/01/17 ats

 

ゼミの最終回。
それが今日だった。
ゼミで過ごした2年間は、あっという間だった。
それでも、大学の門が閉まる時間まで議論したこと、発表で失敗したこと、取材で聞いた話に涙したこと、すべてが今の自分につながっている。
未来の自分にもきっとつながる二年間なのだろう。


これからの話をしたい。
4月から、私は「地方」新聞社の記者になる。去年の今頃は、受けようとすら思っていなかった新聞社だ。全国紙の選考には落ちた。一方で、学部の友人・ゼミの友人は有名企業に就職が決まった。そのことに対して、コンプレックスはないつもりだった。

でも、そうではなかった。
私は、地方紙と全国紙を勝手に比べていた。どうしても、全国紙の選考に落ちたという意識から抜け出せなかった。友人に内定先を聞かれる度に、枕詞のように「大手に落ちちゃってさ…」と言っていた。


ゼミの最終回。
先生から頂いた言葉はそんな私に対する叱責であり、激励だったのだと思う。

日本の中心はどこなのだろう。
人がたくさんいるから東京なのか。東京から遠ければ遠いほど「方」なのか。
そんな意識に、私も毒されていた面もあったのかもしれない。

今日の気持ちを、忘れないために、このゼミ生コラムを書きたいと思った。

「自分のいるところが日本、そして、世界の中心なのだ」
私の仕事は全国の人に影響を与えるようなものではないかもしれない。周りの人に評価されるようなものではないかもしれない。それでも、地域のため、人のため、全力でやれることをやっていきたい。それが、自分自身のためにもなるはずだ。

どうせ「地方」だから…なんていう意識は今日で捨て去ろう。

4月から私は新聞社の記者になる。

後に悔いる

執筆:2012/12/14 ☆


あの時、こうしてれば...あの時こう言っていれば...と、

人は後悔する。このもやっとした感じはいつまでたっても慣れない。あの時こういう返しをしてればもうちょっとウケたかなとか、あの時こう言ってれば論破できたかなとか。もうちょっと頭の回転が早ければなとか。まさしく昨日のゼミはそうだった。

テーマは日米安保と集団的自衛権について。班員とああでもない、こうでもないと、議論した。よし、これで大丈夫...だと思った。

人は大人になる度、、いや、知識が増える度に、まっさらな気持ちを忘れていく。テレビやインターネットがなかった時代は他国のことを知る由も無かった。悲惨な現状を知ることで、助けなければならない。援助しなければならないという構図が生み出されたのかもしれない。

攻撃すること事態は反撃だろうが、悪。だけど、正当。法で規定されているから。法があるなら全ていいのか。正義なんてただのきれいいごとなのか。
年間4000人死ぬとわかっている自動車を許してるこの現実に対して1人でも1000人でも命は命と考える人はどのように答えるか。
私たちは、法によって生かされ、法によって生かされてないのかもしれない。

こんなことが昨日言いたかったのか、言いたくなかったのかわかりませんが、この悔しさは忘れちゃならない気がします。
この久しぶりの感情を思い出させてくれるゼミの場に感謝する日でもあった。

 

 

日本に"郊"はない

執筆:2012/12/01 Tsunaki

 
かつて東京から北海道まで自転車旅行をしたとき、最初に思ったのは「東京はどこまで行っても東京」ということでした。
代官山、渋谷、恵比寿、六本木、赤坂、銀座、日本橋と走り続け、気がつけばもう柏にいる。柏って…千葉じゃん!
もちろん地方へ行けば何もない(というと失礼だが)所が多いのだが、最初に世田谷の自宅を出て東京を抜けた時はとにかく走っても走っても、街。
何というか、メリハリがない。つまりどこまでが"都市"の領域なのか不明確なのだ。ここに日本と諸外国の都市の決定的な差がある。
大陸の場合は非常にわかりやすい。例えば中国語の場合"都市"を意味する単語は"城市"である。城壁に囲まれた領域が"都市"であり、その周辺部が"郊"なのだ。そしてそこからさらに外に行くにつれて近郊、郊外となっていく。
また中央アジアでは"カラ(Qala,Kale,Gala)=城壁"と名のつく遺跡が多い。これはかつてのオアシス都市が城壁に囲まれた陸の孤島であったためであり、今でもその痕跡を見ることができる。
さて、ではなぜ大陸の都市は城壁に囲まれているのだろうか。これにはまず専ら防衛上の理由がある。異民族が相手であったり、たとえ同族間であってもそれが覇権争いや宗教戦争の場合、負ければ都市は略奪を受け、人々は殺されるか奴隷として売られます。つまり降服をして話をつける、ということができなかったのであり、常に敗北=滅亡でした。
相変わらずヨーロッパ旅行は女性に人気で、城塞都市を見て「わぁーキレイ!」と言っているのをよく見かけますが、そもそもなぜその城壁をめぐらせる必要があったのかを考えると、少し見方も変わってくることでしょう。
例えばドイツ30年戦争では人口の3分の1が死亡している。ところが日本の戦国時代はというと、なんと逆に人口が増えている。
これはもちろん単に日本人は平和を愛する民族であって、大陸の狩猟民族が残虐、というわけではありません。(それも少しはあると思いますが…)
日本の場合、やはり異民族の侵入を受けなかったというのが最大の理由だと思います。
つまり大和王朝以降の戦いというのは、あくまで実力者同士の「天下取り」の戦いであって、勝者は最初から敗者の持っていた「土地と住民」両方を支配することが目的であるので、虐殺するメリットがない。
百姓にしてみれば、年貢を納める相手が変わるだけのことであり、「前よりやさしい殿様だったらいいな」ぐらいの気持ちだったのではないでしょうか。実際、戦国時代には百姓たちが弁当を持って戦見学に行ったという記録も残っていますしね。
どうでしょう。日本のcityというものがなんとなく曖昧なのも、それが平和な歴史の産物であったと思うと少しは素敵に見えてきませんか?
ところが、この概念の違いが最近日本で新たな問題を起こしているわけなのです。
前述の通り、西欧諸国など都市というコミュニティはあるひとつの目的をもった機能集団と言えるわけです。それに対し日本のコミュニティの性格というのは集団の存続そのものを目的とする共同体といえます。
まあこれはこれで、道徳や恥というツールを使いながらそれなりに上手くやってきたのですが、近年になって西洋の機能集団における「自由」という概念を表面上だけとってくるからおかしなことになっているわけです。
どちらがいい!ということは一概には言えませんし、人によって答えは違うとは思います。
しかし、どんなことでもそれぞれ背景と歴史があるわけで、そういったところまで含めてを理解した上で、議論するのが大切ですね。
きれいにまとめたようでうまくまとめ切れていませんが、今回はここで筆を擱かせていただきます。

 

1年8ヶ月後に被災地へ入る

執筆:2012/11/28 もっちー

 

 1123日に岩手県宮古市に入り、最終的には釜石市まで行った。現地の取材先で話を聞くために行ったのだが、被災の現場は是非とも見ておきたかった。その中でもどこに行こうかと思ったが、田老と吉里吉里に行くことにした。とりわけ前者は明治・昭和の津波でも甚大な被害を出し、吉村昭の『三陸海岸大津波』でも取りあげられていたので、是非とも見てみたかった。後者は井上ひさし『吉里吉里人』にあやかってみたのである。

 田老駅から少し集落の方に向かって歩くと、大きな防潮堤が目につく。幾度も津波の被害をうけてきた田老では、三陸の集落の中でも防潮堤を熱心に整備してきた。それでも今度の震災ではまたしても甚大な被害を受けてしまった。自分で堤防の上にあがってみたが、相当高いこの堤防を越えて津波が侵入してきたことを考えると、自然の恐ろしさを素直に感じざるを得ない。私もまた津波が警戒される静岡市の出身であるが、私自身も津波を甘く考えてはいなかっただろうかと自省せざるを得なかった。

 田老や吉里吉里の集落の低地では家が根こそぎ津波に持って行かれてしまって、基礎の部分しか残っていなかった。スマートフォンの地図のGPS機能を使って自分の位置を測位すると、確かにここは住宅街で、あそこに銀行があって、こちらに交番があって、ということが分かるが、そのギャップが恐ろしい。かかる非日常空間で心身を病んだ人はどれほどいるのだろうか。

 ところで、集落が津波にさらわれてから既に18ヶ月以上が経過している。どれくらい復旧が進んでいるのかと言えば、報道でも見聞きしていたが、さっぱりである。吉里吉里では仮設住宅団地も見てきた。一応の人らしい生活は出来るようになってはいるものの、仮設はあくまで仮設なのであって、みんな元の生活に復帰したいはずである。それではなぜ復旧が進まないのかと言えば、まず復興予算の出鱈目な使い方が挙げられるだろう。肝心の被災地に予算が全く行き渡っていないことが既に指摘されている。

 今ひとつ背景的な要因を指摘するならば、政局に汲々とするとする情けない政治家たちがしばしば批判される。私自身は、さらに話を一歩進めて、その背景には「天下国家」をやたらと語りたがるタイプの人―政治家に限らず―の突出があるのではないかと思っている。去年の震災以降、そういう動きが目についた。自分の足で被災地を回って何が必要とされているのか知ろうともせずに、東京で暢気に床屋政談をする人たちがいる。こういう人たちも「天下国家」を語るときはしたり顔で「危機管理」だとか「非常事態」を熱心に説いてみせるのだからお笑いだ。

 こういう状況を見てしまうと、昨今の政治に対する無関心・無気力もよく分かる。しかしながら、私自身はかかる状況「だからこそ」政治に対して無関心ではいられない。私たちが積極的に働きかけなければ、状況は悪くなる一方ではないか。もうすぐ選挙もある。住民票は静岡にあるからお金をかけて帰らなければならないが、投票には絶対に行きたい。統治に参加することを通じて私たちの国を良くしたい。被災地に入って、そんな思いを改めて抱くに至ったのである。

 

Google翻訳は意外と使える

執筆:2012/11/28 Tsunaki

 

旅が好きだ。よく旅に出る。特にあまり日本人が行かない国に行くのが好きだ。

だが旅の話を始めると、多くの人に聞かれる。

「英語は?」「英語しゃべれるの?」

問題ありません。だってそもそも英語が全く通じないのですから。

いわゆる旧ソ連圏と呼ばれる国々の国際共通言語は今でもロシア語。日常的にはロシア語しか話さない人も多いです。多くの国では(主都などの)都会では英語は通じますが、田舎に行けばホテルの従業員でも話せなかったりと…

そんな状況の中、まあ身振り手振り等のジェスチャーに加え筆談やカタコトの現地語(どの国に行く時も、最低限は挨拶と数字だけは覚えていこう!)を使ってなんとかしていくのですが、やはりどうしても言葉の壁に阻まれる場面が出てくる。そんな時便利なのがGoogle翻訳なのです!

Google翻訳というと、日本人からしてみると『使えない』というイメージがあるかと思いますが、それは日本語に訳そうとするからであって、「現地語→英語」や「英語→現地語」だと結構使える!

これは恐らく
①やはり日本語が特殊すぎる
②当然、英語の翻訳機能に一番力を入れている
ということが理由じゃないでしょうか。

ちなみに、英語が通じないと書きましたが旧ソ連圏の腐った役人たちはなぜか“money“と“problem“という単語だけは知っていて、賄賂を要求してきます。たいていは根拠のないことなので、無視しましょう。

 

 

仲良くなりたかったら迷惑をかけろ!

執筆:2012/11/27 MINA

 

何を大切にしていて、何を嫌い、何に喜び、何に笑うのか。
 
言葉が話せると、外から見ているだけでは分からないその国の魅力にたくさん気付けます。
特に面白いと思うのが人間関係観の違いです。例えば日本では「他人に迷惑をかけない」ことが至上の価値として教えられますよね。「人様に迷惑をかけるように人にだけはなるな!」という台詞をドラマでもよく聞きます。
もちろんそれはとても大切なことですが、トルコでは、仲が良ければ良いほどお互いに「迷惑をかけ合うこと」が当然だと思われています。逆に困っているときに頼らないと、「なんで頼ってくれなかったの?」と相手に寂しがられる程です。迷惑をかけるということが親しみの象徴ともなっているのです。
私はそういう温かさが日本にいると恋しくなります。迷惑をかけられない友人は結局そこまで仲良くないということの裏返しでもあるのです。トルコには「本当の友達は暗い日々にこそ分かる」という諺もあり、上手く行っているときは誰もがちやほやしてくれるが、本当に自分のことを思ってくれている人は、上手く行っていないときにも変わらない態度で接してくれる人なので分かる、というのです。
広い交友関係を作る「ネットワーキング」は様々な仕事を運ぶ上で欠かせないことですが、それとは違う次元で “Kara gun arkadasi” (暗い日の友人)を持つことは豊かな人生を送る上で大事だなぁと実感します。私も何人か駆け込み寺のような友達がいますが、彼女たちの存在がなければ今の私はなかったと言っても過言ではありません。

トルクメン人おばさん達の語学力の源

執筆:2012/11/27 MINA

 

トルクメニスタンという中央アジアの国に遊びに行った時のことです。

 この国は20年ほど前に旧ソ連から独立した比較的新しい国で、公用語のトルクメン語とロシア語が半々くらいで使われています。トルクメン語とトルコ語はルーツが同じなので似てはいるものの発音が違うのでぱっときいただけでは何を行っているのかさっぱり分かりません。


しかし私がトルコ語で話すとやたら通じる。

 

不思議に思っていたのですが、スーパーで買い物した時、暇そうなレジのおばさんと話が弾んだことがきっかけで謎が解けました。それはトルコのテレビドラマが人気を博しているらしいことが一番の理由でした。自国のテレビチャンネルが未発達で面白くないので、比較的文化と言語が近いトルコのドラマが大衆に人気だということでした。

 

韓流ドラマブームの中央アジアバージョンか!

 

数日後トルコに帰国し知り合いのテレビ関係者にこの話をしたところ、最近では中央アジアの視聴者のことも考えて、人気が出るようなドラマが制作されているとのことでした。トルコの人口は約7500万人。中央アジア全体の人口の合計は約7000万人。合わせて1億4500万人のトルコ諸語話者がいる計算なので、確かにその市場を視野に入れないと勿体なさ過ぎるのかと合点しました。(それにしても中央アジア6カ国の人口を足してもトルコ一国に及ばないのには改めて驚きました。)