ゼミ生コラム

14・15期(2011年度)

卒業と自由について

執筆:2012/03/31 花村総一郎

卒業式の朝、アラームがなる前に目が覚めた。

そしてふと、尾崎豊の「卒業」が頭の中に流れた。

 

尾崎豊は「本当の自由とは、自分自身の考えを持つことなんだ。自分の考えをもっていれば他人に惑わされることはない」と語ったらしい。ひたすら自由を追い求めた男らしい定義だ。自分の中に構築された他人の意見、他人の価値観からの自由。

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4年前の今頃、とにかく前に進みたかった。無駄な時間を過ごすのが嫌だった。何か自分のためになることをやっていたかった。取り残されるのがこわかった。「価値」のある人間になりたかった。

焦っていた。

そうして俺は考えることを止め、てっとりばやく安易な方法で強くなろうとした。

自分にとってどっちが「前」か、

なにが「無駄」か、

なにから「取り残される」のか、

そんなことを真剣に考えることを放棄した。

そこらへんにころがっている価値観に、選択することの責任をなすりつけていた。

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水島ゼミの先輩が、こんなことを言っていた。

みんな自分の本当に望む時間の使い方が分からない。でも時間は無駄にしたくない。だから代替可能性と保存可能性の高いものに、時間を変換しようとする。たとえばお金。

とりあえず今何をやりたいかわからないから、やりたいものが出てきたときに利用できるように、時間を変換して、保存しておこうとする。だけど肝心のやりたいことをいつまでも探そうとしないから、変換物だけが累々と積み重なっていく」

ひたすら前に進むことだけを考えて必死に勉強しているつもりで、結局は本質を探そうとせず、無慈悲に過ぎ行く時間を保存しようと躍起になっているだけなのだったのかもしれない。

 

自ら選択することは確かに苦しい。

選択には責任がつきまとう。

でもその責任と向き合うことなしに、本当の自由はえられない。

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自ら選択を放棄する国民、(消去法であったとしても)自らの選択した政治に責任を持たない国民、選択することをエリートやうさんくさい社会通念・市場・他国に委ねる国民。

日本国民は自由だろうか。

俺は自由だろうか。

 

自由が選択を可能にするのではなく、

自ら選択することによってのみ自由が保たれる。

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「あと何度自分自身卒業すれば 本当の自分にたどりつけるだろう」

 

今日俺は、早稲田大学を卒業する。

 

 

高齢者・障がい者にまつわる問題を憲法ゼミで考える

執筆:2011/11/23 ふじや

 

 初書き込みなので軽く自己紹介をしつつ、僕の中で一番関心のある問題について触れさせて頂きたい。僕は小学生の頃今でいう特別支援学級の人達と仲良くさせて頂いて、中学生になった時母が介護福祉士という仕事に就いた。その所為か、他のゼミ生はご存知かと思うが、高齢者や障がい者にまつわる問題を多く取り上げさせて頂いた。

 

 こんな生い立ちがあるので、実は社会保障法のゼミを選ぼうか悩んだ時期もあったがこの問題をあえて水島ゼミで扱いたいと思い志望した。なぜあえて憲法ゼミなのかというと、もちろん高齢者や障がい者にまつわる問題は日本国憲法によって保障されている権利の侵害になるほど大きな問題だからというのもあるが、一番大きな要因は必ずしも社会保障に関心の高い学生ばかりではないことである。

 

 母が介護という形で福祉の現場に携わっているおかげで、家族の中の会話で自然にそういった話題が出る。その時、純粋に世の中の理不尽さを感じることが多いが、そこで「みんな介護のことを知らない」という言葉をよく耳にする。実際介護の現場でも、福祉学における理想の介護と契約当事者たる介護サービス利用者の家族の望む介護がずれているがために起こる摩擦が存在するそうだ。こういった話を聞いた時、憤りを感じると同時にこのような介護にまつわる問題は現場を理解している人達だけで解決できる問題ではないと強く感じ、今に至る。

 

 これらの問題は、当事者団体以外での議論はどこか他人事であることを拭い切れない。それでも、先日ゼミ内で紹介した成年後見人制度と選挙権の関係(今違憲確認訴訟が提起されているが、成年後見人制度を利用すれば今まで問題なく選挙権を有していた知的障がいのある人々の選挙権がはく奪されること。誤解して頂きたくないことだが、知的障がい者が成年後見人制度を利用する時は障がいが悪化した時ではなく、むしろ本人の障害年金や賃金の管理を支援する必要性が生じた場合に利用するものである。ご興味を持って頂いた方は是非成年後見人 選挙権でWEBの検索をして頂きたい。彼らの憤りがいかに大きいかを理解して頂けるはず。)を取っても、今この時に憲法で保障されているはずの権利侵害が起きていることは間違いない。これらの問題を他人事として放置せず、必ずしも福祉に携わる人ばかりではない憲法ゼミで議論する価値があるのではないかと思う。そして、このコラムを偶々目にした人の一人でも多くの人々がこの問題に関心を抱いて頂ければ幸いである。

 

執筆:2011/5/20 あらた

アメリカ遊学を開始してから2カ月近くが経った。毎日の宿題に忙殺される毎日だが、少し余裕も出て来た。そこで、気付くのがアメリカの大学における学生の多様性。自分が留学生で、他の留学生が集まりそうなイベントに顔を出すことが多いということを差し引いても色んな国の人がいるし、生徒の年齢も様々である。アジア人はとにかく多いし、(4つクラスを取っているが、全ての授業にアジア人はいる)南米・中東・ヨーロッパ、さらにはアフリカ人の知り合いもいる。
中国・インドからの学生は30代・40代の人が結構いるし、働きながら学校に来ているアメリカ人の人も沢山いる。さらに同じアジア系でも、高校からこっちに来ている人、交換留学で来ている人、途中で移って来た人と、状況は人によって当然異なる。大学院に通っている人との交流も日本以上に多い。
これだけ色んな人がいると、やはり必要なのがコミュニケーション。日本にいてもしなければならないことではあるが、同意が必要な場合はきっちり取るのが基本だ。言葉足らずは誤解を招く可能性が高いから、必要なことは何度でも言うし、相手も確認を取る。(You know what I mean? とか) いわゆる「ロー・コンテクスト」カルチャーという背景の一つは間違いなく多様性だろう。元々の共通項が少ないから、会話で共通項を作りだすしかないといったところか。
だが、それ以上に、「他人への気遣いの文化」も色濃く存在している様に思う。常にミス・コミュニケーションの危険に晒されるというのはストレスだ。だから、なるべく他人を気遣うこともまた大切になる。
小さなことではあるが、建物に入る際に後ろに人が居たら、ドアを押さえて開いたままにしておく(わりと遠くにいても開けながら待っている人は結構いる)とか、また、”Thanks”や”Excuse me” というだけで印象が大部違う。
これは授業とは関係ないけれど、アメリカで学んだことの一つだ。
多様性というのは、授業においても深みを与えてくれる様に思う。授業における意見が変に偏らない。ディスカッションはほとんど全ての授業で行われていると思うが、誰かの意見には必ず反論が入る。なるべく自分も反論する様に心掛けてはいる。(上手く議論に載れない授業もあるけれど…)色んな意見があるというのは、バランスのとれた議論を展開する上で大切だということを実感する。
最後に、水島ゼミと早稲田について。水島ゼミでは、色んな人の色んな意見を聞く機会に恵まれていると思う。ゼミ内では自由に議論できるし、ゼミ外の人にお話を聞きに行くことも出来る。来年ゼミに復帰することになると思うけど、大学最後の年を思いっきり使って行きたい。
加えて言うならば、早稲田は授業の外でもそういった機会に恵まれている。僕の取っているクラスの一つでは、課外のレクチャーやシンポジウムに出席すること義務づけていて、これが結構面白い。早稲田に居たころはあまり参加したことがなかったけれど、ワセダネットポータルに意外と掲載されているし、大学の立地が良いので、他の大学で行われているものに参加するのも楽だ。帰ったら多々利用してみたい。
他を気遣うことと、他に媚びることは違う。個を保つことと、自分の世界に閉じこもることは違う。他に耳を傾けることと、他に迎合することは違う。「他」と上手く交わりながら、社会の「多」に貢献出来る様になればいいなと思う。