ゼミ生コラム

13・14期(2010年度)

執筆:2011/3/2 早稲女こそ大志を抱け

私は、「早稲女(わせじょ)」が好きだ。
「早稲女」とは、アンサイクロペディアによれば、「早稲田大学に存在する、第三の性別。『生物学的に女』である」らしい。あるいは、よく言われる短的かつ明確な具体例によれば、飲み会に行った際、お会計時に払う額は「女の子は2000円、男の子は2500円、早稲女は3000円」と扱われる存在である。そもそも男女で支払い金額を分けるのは不公平であるとのご指摘や、(当たり前だが)実際にこのような区別をされたことはないという事実は置いておこう。要は、「早稲女」はいわゆる「女の子らしさ」を越えた存在であり、それ故例示のようなイタイ扱いを受けるらしい。
このような理不尽な扱いにもかかわらず、「第三の性別」と言われる「早稲女」を、私はいたく気に入っている。まず、「早稲田」および「女(子?)」の指す意味が多義的であるがために、自分を認容してもらう被り物のような機能を持つ。実際、身の回りにも様々な主義主張を持つ「早稲女」が生息していて、リベラルやラディカル、「女子力」向上を意識したり、女を文字通り武器に使ったり、バリバリのキャリア志向だったり、元からそんなこと興味がなかったりと、まさに多種多様。そして、同族だと思い込んでいた「早稲女」たちから、黙示・明示の反論に会う度に、自分の「早稲女」を確立していくような気分になる。
そもそも、私は小さい頃から不満だらけだった。
なぜ、昔の有名な音楽家は、男の人ばかりなのか。
ピアノの先生は女の人で、習っている子も女の子ばかりなのに。
なぜ、テレビに出てくる「料理の鉄人」は、男の人なのか。
どの家もお母さんの方が料理上手で、むしろお父さんなんかほとんど料理ができないのに。
なぜ、中学・高校になると、先生はみんな男の人になるのか。
幼稚園や小学校は女の先生ばかりだったのに。
「ぼくっ娘(ぼくっこ)」や「俺っ子」という言葉を大学で初めて知ったのだが、私も紛れもないその一人であり、ぼく俺時代は小中高と続き、男のようにふるまうことに異様な執着を見せる始末。必死に自分の「女性性」を否定しようとしていた。その理由は多く思い当たるのだが、その一つを今の「私」が代弁してみればこういうことだ。
上に行けば行くほど、今まで社会的に構築されてきた「限界」を知って不安になった。だから、「女の子」らしさを否定し、「男の子」のようにふるまうことで、その「限界」を否定したかった。
しかし、その頃の私は狭い世界で、作られた「限界」を鵜呑みにしていただけ。あくまで身体的・内面的な特性は、相対的評価であり、さらに言えば既成のジェンダー観に男女共自ら合わせる傾向にあるために、「性差」が社会的に構築されている。絶対的かつ決定的な根拠だとなぜか周りが思いこむ、生物学的・科学的な違いすらジェンダー規範に影響された曖昧なものに過ぎない。
大学では、自分がこれから生きるための「芯」を見つけたいと思っていた。そして、見つけた一つが「早稲女」である。ずっと持っていた不満を「どうでもいい」と突き放し無視するのではなく、自分を証明する理論を囲こみ支えてくれたのが「早稲女」であった。そして、私はこれからこの「芯」を持って生きていく。
…そうかっこよくこの社を旅立ちたいところだったが、あと二年間お世話になるのは、うれし恥ずかしありがたしといったところである。(笑)だから、あと二年間、今まで見つけた「芯」たちを強固な基礎にする作業をしたいと思う。

 

執筆:2011/2/8 やっくん

 

ゼミ論文を書き上げ、最後の試験を切り抜け、ようやく気持ちに余裕が出てきた最近、ふと4年前の自分を振り返ってみた。
あの頃の私は、4年後、法科大学院に進学することになろうとは想像もしていなかった。別に法曹を目指していたわけでもなければ、法律の勉強に興味があったわけでもなく、合格した中で最も「よい」大学・学部だったという、ただそれだけの理由で入学した早稲田大学法学部。
1年生の間は、法律科目はほとんどの講義がチンプンカンプンで、正直サボることも多かった。それが、何となく志望していた国家公務員の説明会に行ってみて「何かこれは違う…」と思っていた時期に、いくつかの興味深い司法判断がなされたことと、2年次のある先生の民法の講義で「法律の勉強ってちょっと面白いかも」と思ったことがきっかけで法曹を志望するようになった。
考えてみると、他校は経済学部を受験したりしていたので、こうなったのは、早稲田の法学部に進むことに「なってしまった」からこそなのだ。
第一志望校ではない場所に行くことになったがゆえに、結果として、人生で初めて本気でやりたいことを見つけられたのである。だから第一志望校に合格できなかったことがよかったとまではいわないが、自分では失敗したと思っている状況の中をよく見渡せば、意外にチャンスは目の前に転がっていることがあると学んだ。
タイトルは、B’zの『白い火花』という曲の一節である。人生には、たくさんの困難が待ち受けていると思う。しかし、先の教訓を生かして、どんなときも、与えられた場所を自分の目でよく見つめ、自分の進むべき道を選んだら、ベストを尽くすことを、ある意味淡々と続けていこうと考えている。

 

執筆:2011/1/31 ともひろ

 

先日(1月28日金曜日)、高田馬場の居酒屋にて新旧ゼミ長で「差し飲み」を行った。
「行(おこな)った」というと、以前から計画していた感が出るが、「たまたま」同じ授業(授業名:『沖縄学の現在』)を履修しており、その帰りに飲みに行ったという経緯である。
「学生生活最後の授業だ」と意気込んでいた私(第13代ゼミ長)は、「レポートを提出したら終わり」という最後に少し拍子抜けした。そのお陰で(?)私と小森(第14代ゼミ長)は18時半という早い時間から飲むことができた。
  何を話したのか詳細には覚えていないが、とにかくお酒片手に熱く語り合った。就職活動やテストなどたわいもない話しに始まり、「最近の早稲田大学について」「日本の教育について」「現在の資本主義について」「『エリート』公務員について」などをテーマに互いの立場から「批判的に」語り合った。
意見が一致するテーマもあれば、正面から対立するテーマもあった。時間が経つのも忘れ、ビールを何杯頼んだのかも忘れた。テーマも意見もバラバラな差し飲みだったが、お互いに心底同意できることが一つあった。
それは、「水島ゼミでよかった」ということ。大学に入学するまで「優等生」として過ごしてきた新旧ゼミ長にとって、水島ゼミは相当「刺激的」なものだった。社会人になる私にとって、「水島ゼミ」での2年半(とりわけゼミ長としての1年半)は、「悩みと葛藤」に満ちたものだった。しかし、だからこそ「水島ゼミでよかった」と思えるのかもしれない。
そして、これから水島ゼミを舵取っていく第14代ゼミ長の口から「水島ゼミでよかった」と聞けたことが何より嬉しかった。最後のビールを飲み干したとき、時計の針は23時35分を指していた。「楽しいときは時間が経つのも忘れる」とはまさにこのことである。後輩ゼミ生の今後の活躍に卒業後も注目していきたい。