ゼミ生コラム

12・13期(2009年度)

執筆:2010/01/06 まきろん
先日、百万円と苦虫女という映画を観た。短大卒業後、就職もできずにアルバイト生活をおくっている鈴子というおんなのこが、百万円が貯まるたびに誰も知らない土地へと引っ越しし続けるというストーリーだ。
映画の解説では、“行く先々の街で様々な人たちと出会い、笑ったり、怒ったり、素敵な恋をしながら、自分だけの生き方を見つけてゆく女の子の旅物語。”などと書かれている。

  「自分探しみたいなことですか?」日本全国を転々とする鈴子をみて、バイト先のおとこのこがこう質問する。
しかし、鈴子はこんな言葉を返す。「いや、探したくないんです。探さなくたって嫌でもここにいますから。逃げてるんです。」
私はこのシーンを見て、自分の学生生活を思い返した。

  思えば大学に入学したての頃は、とにかくいろんなことに挑戦して、いろんな場所に行って、いろんなコミュニティに所属して、いつもいつも違う人と遊んでいた。
特別意識していたわけではないが、いわゆる“自分探し”をしていたんだと思う。でも、鈴子のいうように、私は私から逃げていただけだった。
一見、一つのコミュニティの中で、限られたことをするのは、楽にみえるかもしれない。でも、私にとっては嫌いな自分の全てをさらけ出してしまうのではと不安だった。
そして、それぞれのコミュニティでその団体にあった私の一面を見せて傷つかないようにするほうが楽だった。多くの場所で多くの人と付き合っていくうちに、自分にとって利益のある部分だけ吸収して、相手にとって利益のある部分を提供することがうまくなった。結局、一人の人としっかり向き合うと、不安でふわふわしちゃってた。

  もうすぐ、私は大学を卒業する。自分も、自分だけの生き方も見つけられたとは思わない。でも、もう探さないし、探すという名目で、自分から逃げることはやめたいと思う。
執筆:2009/12/23たいが
都内及び都内近郊には大小無数の映画館と十数か所の名画座がある。
シネコンからポレポレ東中野のようなミニシアター、池袋の新文芸坐や早稲田松竹などでは、ハリウッドの超大作や最新の邦画はもちろんのこと、黒澤や小津といった往年の名作からゴダールやトリュフォーといったヌーヴェルヴァーグの巨匠、さらにはミヒャエル=ハネケやヤン=シュバンクマイエルといった熱烈な支持者を持つ海外の名匠の作品まで、あらゆる人の「映画的ニーズ」に耐えうる佳作(あるいは駄作)が日々供給されている。
他方で別に映画館に行かなければ映画が観られないということは決してない。街にはレンタルヴィデオショップが溢れているし、テレビでも映画は放送される。もっと手軽に時間を潰したければテレビドラマもあるし、携帯電話で「小説」まで読める。我々の生活は、まるで足りない自我を埋め合わせるかのように、「娯楽」で覆われている。

  しかし、ここでは実際に映画館に行き作品を観るということの重要性について強く語りたい。
映画館へと赴き、(作品によっては行列に並び、)チケットを買い、(映画館によっては)お世辞にも座り心地が良いとは言えない硬い椅子に腰をかける。映画館に実際に行き、加えてそれらの過程を踏まえることは幾分「不便」であり「面倒なこと」であるかもしれない。

  しかし、むしろだからこそ、それらの過程と映画館という非日常的空間が我々を日常生活とはかけ離れた場所、いわば映画的物語世界と言いえる場所へと導いてくれる。5月の雨に降られながら神楽坂まで観に行った『リリィシュシュ』だからこそ、その感傷と残酷が胸を深くえぐり、明け方まだ薄暗い池袋を歩いて帰った余韻があったからこそ『タクシードライバー』のロバート・デ・ニーロの抱える狂気が自らの記憶の中で異物として残り続ける。
そこにあるのは他者の「痛み」であり、映画的物語世界の中でその「痛み」を「追体験」しているのである。我々の生きる時代(再帰的近代)はかつての時代よりも他者との共感可能性を見出すことが難しい。価値観は多様化し、自明性は相対化され、かつてあったような「悲劇の共有」もない。そんな中で映画的物語世界において他者の「痛み」の「追体験」を積み重ねていく、これこそが再帰的近代に生きる我々の数少ない他者に対する共感可能性なのではないだろうか。
映画的物語世界での他者の「痛み」の追体験は、レンタルヴィデオショップで借りて自宅で鑑賞するDVDやテレビドラマあるいは携帯小説などの「便利」で「快適」なもので体験することは難しい。確かにテレビドラマや製作委員会方式が生み出した「テレビ的映画」にはおびただしい数の「痛々しい言葉」が並ぶ。顕著なのは携帯小説だろう。不慮の事故・不治の病・いじめ・中絶、これらの言葉は我々に表層的・刹那的な「痛み」を与えるかもしれないが、これらの言葉が我々に共感可能性をもたらすことは少ない。むしろこれら「痛々しい言葉」の羅列は我々にそれらの事象を「ありえること」として受け入れさせてしまう。
「ああ、聞いたことあるよ」「なんか最近多いらしいね」と、他者の「痛み」に対する感覚を鈍らせていき、あらゆる事象が「他人事」と化していく。こうして他者の「痛み」の「疑似体験」のみを繰り返していくことで、我々は他者とその「痛み」に対する想像力を、目まぐるしく終わりなき日常の中で喪失し続けているのではないだろうか。

  自明性という前提の崩壊、人の過剰流動性という再帰的近代に生きる我々の数少ない他者との共感可能性の契機とは、映画的物語世界の中でいかに他者の「痛み」を追体験できるか、そのことに委ねられている。それこそが、あらかじめ失われた時代に生きる我々の宿命であり、また救済(というよりむしろ自己療養)へのささやかな試みなのではないだろうか。