ゼミ生コラム

10・11期(2007年度)

執筆:2008/03/23 ミツル
▼早稲田での5度目の桜を迎えた。今年の桜に、僕は「終わり」を感じた。もう1年、早稲田での生活は残っているのに。今、「卒業生」の気分だ。同期が多く卒業していく。かつてのコミュニティに、もう同期はいない。後輩達も、やがてはいなくなっていく。「終わり」は、寂しいものだ。


▼水島ゼミ生としての僕が、あと2日で終わる。僕にとってのゼミの「始まり」を思い出す。それは、あるコラムを読んだことだった。

▼2年半前、水島ゼミの選考を控えた僕は、本HPの「ゼミ生コラム」を読んでいた。6期生の「南」さんの「理想と、現実と」というコラムが印象的だった。「理想もまた現実の中からしか生まれない、そう信じている。理想と現実は、決して二律背反ではない。そう思わせてくれたもの。それこそが、早稲田大学という場であり、水島ゼミという場であった」

▼「だってさぁ・・」「しょうがなくね?」「そんなもんっしょ」・・。今まで、これらの言葉を何度頭に浮かべては必死で飲み込んできただろう。僕は、これらの言葉が大嫌いだ。現実に負けたことを認めたくないからだ。昔からそうだった。

▼「社会が変わるのを待ってはダメで、自分が動かなきゃ社会は変わらないと思った」(ハンセン病元患者)「夕張に帰りたい・・。でも、あの医者のいる病院には帰りたくない」(夕張の病院から転院を余儀なくされた人工透析患者)「戦争のことを語りたくても語れない、妹のような人間もいるんです!!」(沖縄戦の後遺症でコミュニケーションに支障をきたす妹を持つ女性)

▼現実と闘い、もがき苦しんでいた。血の通った「ひと」がそこにいた。僕と、根本の部分で同じように悩んで生きていた。「社会」と自分に、垣根はない。「日本や世界のあちこちに、さまざまな『ひと』がいる」。水島ゼミで学んだことは、そういうことだ。

▼「南」さんは、こんなことをコラムで言っている。「新しい水島ゼミの主役を担っていく皆さんへ・・・現実との接点を大切にし、自分だけの感覚を掴み取ってください。水島ゼミが、その機会を与える場であり続けることを、切に願います」。

▼「南」さんへ・・・あなたのコラムを読んで得た直感は間違いではありませんでした。僕は、僕だけの感覚をこのゼミを通して得られました。「現実と闘う」。この信念を持って、今後も生きていきます。

▼新しい水島ゼミの主役を担っていく皆さんへ・・・皆さんが何に喜び、悲しみ、怒るか。それを考えることが、ひいては社会を見るときの視点に繋がると思います。ゼミを考えることについても一緒だと思います。皆さん一人ひとりにとって、「水島ゼミに入って良かった」と思えるようなゼミであることを祈っています。OBにとって、それが一番嬉しいですから。

▼水島先生、現役ゼミ生へ・・・明日の追いコンで語ります。一言、本当にありがとうございました。

▼「現実と闘う」。そんな仕事ができたらな。早稲田で見る6度目の桜の季節を、最高の「始まり」として迎えられますように。水島ゼミ、ありがとう! 
執筆:2008/02/09 もとこ
私は、自分の姿を鏡に映すのが癖だ。

自意識過剰だナルシストだと言われようが思われようが、本当のことだから仕方ない、と開き直ってみる。

  もっとも、昔からそうであったわけではない。今の自分が完璧だと思っているわけでもない。それでも、自分なりの美意識がある。ここに至るまでの経緯を、今回のコラムのテーマとした。非常に恥ずかしいテーマだし、水島ゼミのサイトにふさわしいのかも分からないが、私という人間を知ってもらうには、一番弱いところを知ってもらうのが一番ではないかと思ったのだ。

  私の母は、自称「ラテン系の顔立ち」。目がパッチリとしていて、かなりインパクトがある。一方、娘の私は、「平安時代に生まれていたら、確実にもてた」と本気で思っていた、まぁ、つまりは地味な顔立ちだ。

  とりわけ中学生の頃は、「もっとかわいく生まれれば」、と半ば本気で思っていた。そうすれば、流行り物も好きになっただろうし、流行り物についていけたら、もう少し学校でも友人を増やせたのではなかろうかと。正直に言えば、オタク気質の私は、クラスでも少人数のグループに属していた。別に「流行り物を知らない=悪」「友達が少ないこと=悪」であるはずはないのだが、地味であったゆえに、時にからかわれたのもまた事実。それほど意固地にならなくてもよかったのだろうが、そこは当時まだ中学生~高校生。若かったということで、当時の私を、大目にみていただきたい。

  やっとこ吹っ切れ始めたのは高校生のころ。だが、インドア派で今よりだいぶふっくらしていた自分は、やはり自身の容貌に自信を持ちきれなかった。
  ようやく、本格的にふっきれたのは、大学に入学してから、つまり、案外最近の話である。制服がなくなり、特定のクラスというものがなくなり。「あ、自分の好きにしていいんだ」と、やっと一息つけた。

  ファッション雑誌を買っても、あまりしっくりこないのも当たり前だった。きれいでいることが仕事であるプロのモデルに似合う服が、果たして自分に似合うのか?果たして日本人顔の私に、この化粧が似合うのか?そもそもこの組み合わせは、本当に素敵なのか?こんなことを考えながら雑誌のページをめくるのも、夢がないといえば夢がない。だが、自分の特徴を一番知っているのは自分だ。自分に自信がなかった分、「美しさ」の基準には、人一倍厳しいのだと思う。流行のものを着て自分が素敵になると思うなら着ればいい。こう思えるようになるまで、苦節7年。何をそんなに気に病むことがあったのかと今になれば思うのだが、実は小心者の自分には、適度な年数かとも考える。

  ここに至るに重要だったのが、「自分をブスと思わなくする」という、シンプルなこと。とある漫画家さんのエッセイでこの一文を発見し、「自分に足りないのはこれだ」と直感した。何をそんな大げさにと思われるかもしれないが、「もっとかわいく生まれてもよかったんじゃなかろうか」と思い続けていた人間である。コペルニクス的転回といっても自分には大げさでもなんでもない。自分をどうにか変えるなら、ここからかと思ったのだ。

  それからは、傍目にはアホな話だが、朝起きれば「今日も一日素敵でいよう」と鏡をのぞき、町を歩けば、猫背になっていないかガラスに映る自分の姿を確認し、と、とにかく自分を客観的に見ても、できるだけ美しくあるように気をつけた。この傾向は、着物を着始めることでさらに加速する。何せ、着物姿は珍しいので、目立つ。後姿にも気を抜けない。帯が下がっていないか、色あわせは変に思われないか、いろいろと気を配る。なにより、着物が好きで、勝手に「着物の良さ広報担当」のつもりで歩いているのに、自分が素敵に見えないのではどうしようもない。

  さらには、たとえ綺麗な人になれたとしても、部屋がしっちゃかめっちゃかでは幻滅だ。また、姿見に汚い部屋が映るのは気分が悪い。そう考え、○袋分のゴミを捨て、マメに掃除をし、1週間に1本花を買う。(花束を買いたいが、そこまでの財力と手入れをする技量はない)ここまでして、やっと、自分を肯定できるようになってきた。

  もちろん、まだまだだと思うところはある。部屋は、ちょっと気を抜くとゴチャゴチャするし、ちょっとお菓子を食べればニキビができる。次は運動か、と思いつつ、まだ実行できていない。改善すべき点は、まだまだある。他人にツッコミを入れる前に、自分をどうにかしなければ。今の自分は、「ムダにプライドの高い女」であって、寛容さにやや欠ける。なにより、何に関しても、やる気が持続しなかい。考えれば考えるほど、「美」への道は険しい。そもそも「美」とはなんなのか?ただ、道のりは長い反面、確実にリターンのある「投資」でもある。そう思うと、どことなくワクワクしてくる。

  こんな文章を書いている私は今、風邪を引いて髪はひっつめ、服はパジャマ、眉毛の手入れもしないとなーとか思っている。嗚呼、美への道のりは、遠いのだ。 
執筆:2008/01/27 塩辛せんべい
  こんにちは。最近とても寒い日が続いていますね。

  このまま冬が過ぎ、春が訪れると・・・僕はついに長年続いた「学校生活」を卒業し、社会人として社会に出て行くことになります。

  正直、今の気持ちは複雑です。もっと学生として自由に生きていきたい、自由に色々なことを勉強していきたい、と思う反面、早く自立したい、社会に出て自分の夢を実現させたい、という思いもあります。期待と不安が入り混じった気持ちの中、毎日を過ごしています。

  そこで、これから社会人になるにあたり少し自分の気持ちを整理してみたいと思います。これからどのような人生を歩んでゆきたいのか、どのような夢を持って生きていくのか、を中心に考え、これからの社会人生活に備えてみたいと思います。

  まず第一に、「安定した生活基盤」を構築することが僕の最初の夢です。
  経済的にも安定的な収入を得られることが、僕の持つさまざまな目標実現のためにも必要不可欠なことでしょう。
  また、この「安定した生活基盤」には仕事において「転居を伴う転勤」が発生しないことも含まれます。同じ場所でじっくり腰を据えて(現実から逃げることのないように)生きていきたいし、自分の子どもが生まれた際にも、子どもの生活場所を親の都合でいきなり変えてしまうことのないように配慮したいと考えているためです。

  第二に、「ワークライフバランス」を実現させることが僕の2つ目の夢です。
  仕事・家庭・趣味・友人など、人生においては多くの魅力あるものに恵まれています。そうしたもののうち、どれか一つだけに情熱を注ぐなんて、何だかもったいない気がします。
  自分の周りにある様々な魅力に対し、バランスよく関わっていきたいです。特に「子育て」と自分の趣味である「走ること」には精力的に取り組んでいきたいと考えています。そして自分がおじいちゃんになったとき、マスターズ陸上やマラソンなどに元気に参加し、できることなら自分の子どもと一緒に走ることが、僕のささやかな目標であったりもします。

  第三に、「ちゃんとした人として生きていく」ことが僕の3つ目の夢です。
  いきなり抽象的な夢になってしまいました・・・。でも、このことが僕にとっては一番大切にしたい夢なんです。
  日々の生活の中では、人を人として扱わなかったり、何でも数字に置き換えてしまったり、人に対する感謝の気持ちを忘れてしまったり、自分の気持ちを素直に言えずに周りに合わせてしまったり、自分の夢をあきらめてしまったり・・・なんてことがしばしばおきてしまいます。僕自身も、今までこういった事態に何度も陥ってきました。
でも、そうじゃいけないんじゃないかなぁって思うんです。
  人は人として大切に扱うべきであって、人に対して「使えない」とか「役に立たない」などと言ってみたり、お金や地位で人を判断してはいけないんじゃないか。 そして自分の持つ純粋な気持ちや夢を忘れないようにするとともに、他の人の持つ気持ちや夢も大切にしていきたい。そして人に対する感謝の気持ちも忘れたくはない。

  子どもじみているかもしれませんが、僕はこういったものを信じて生きていきたいのです。子どもの頃には持っていたはずの、こういった純粋な気持ちを、何とか忘れないようにしていきたいのです。

  でも、これってなかなか難しいことですよね。今までの人生の中で、これらを完璧にこなせたことなんてほとんどありません。でもだからこそ、いつの日か、こういったことをしっかりとこなせる「ちゃんとした人間」になりたい。これが、僕の3つ目の夢です。

  さて、あと2ヶ月程で僕は社会に羽ばたいていくことになります。社会の大きな流れの中で、僕の今持っているような夢や希望は打ち砕かれてしまうかもしれません。しかも、僕は自己主張の非常に弱い、流されやすい人間です。
  ですが、自分の心のうちに秘めた、本当に大切な「夢」や「生き方」だけは、何があっても守り通していきたい。そして自分は自分らしく、生きていきたい。

  そんなことを考えている、今日この頃です。
執筆:2008/01/18 ふびん
私は通学時間が長く、そのため電車に乗っている時間も長い。

  長時間の電車通学は確かにつらい。しかし電車の中というのは興味深いものだ。吊り広告も世相を反映していて、あれはあれで興味深い。それに、電車の中はちょっとしたエピソードが生まれやすい。

  ある日、混んだ車内で通話する若い女性がいた。声は抑えているが、緊急の用事でもないらしくずっと話しこんでいる。我慢が限界に達したのか、彼女に、一人の男性がイライラした声で言った。「あんたさぁ、電話やめてくれる?イライラするんだよ。あんただけじゃないんだよ。こっちだって仕事でイライラしてるし疲れてんだよ。周りの事も考えろよ。」この言葉で女性は電話をやめた。
  男性の主張は正しいし、確かに車内の通話はマナー違反だが、私は懐疑心を禁じ得なかった。彼は果たしてマナー違反者全員にそういう注意するのだろうか?おとなしい若い女性だったから八つ当たりも含んだ言葉をかけたのではないか?注意の仕方も最低限のマナーが必要だし、正しいことを盾に何でも許されるものではないと、気まずい空気の車内で思った。

  またある日、男子高校生がわらわらと乗り込んできた。腰パン姿のガタイのいい高校生たち。車内でわぁわぁ大声で話している。一瞬眉をひそめそうになったが、大声で話すその内容はしかし、真剣な進路の話だった。
「俺は取りたい資格があるから○○大学へ行く。」「俺は職業とは結びつかなくても法学部へ行きたい。何かの役にたつし。」「お前は?」「俺は将来、銀行で働きたい。」「すげえな、銀行って公務員なんだろ?」「それは知らないけどな。」
  銀行員は公務員じゃないぞ、と心でつっこみながら、私は自分の高校の頃のことを思い出した。私もこうやって進路悩んでいたなぁ。そして少し彼らのことが羨ましくなった。自分はもう過ぎてしまった時間が彼らにはあることに。ガンバレ後輩。

  私も電車の中の失敗談は多い。高校三年の頃、電車で友人とお喋りに興じていた。女は美人だと得だ、ということを冗談のつもりで話していた。すると隣に座っていた上品な老婦人から声をかけられた。「いいえ、それは違うわよ。これからは女性も社会で働かなくてはダメ。顔は関係ないの。そのためにはあなた達もしっかり勉強して社会で活躍しなさい。」
  私達は笑い話のつもりだったので、一気に恥ずかしくなり、顔は火照って赤くなった。その女性が降りるまで、赤っ恥で肩を縮めて座っていた。しかし後から思い返すとじわじわ感激の気持ちが生まれてくる。あの時、女性はどんな思いで見知らぬ私達に声をかけてくれたのか、その気持ちを推し量ると感謝の気持ちでいっぱいになる。きっとご自身が頑張ってきた方なのだろう。彼女が若かった頃は、女性ということでご苦労も多かったのではないか。彼女の「しっかり勉強して」という激励の言葉を思い出して、今でも気が引き締まる思いがする。

  電車は不思議な空間だ。あんな狭い密室で、赤の他人とあんなに接近して、よく考えるとあまり嬉しい環境ではない。しかしそれに耐えられるのは、多少なりとも同じ車両に居合わせた人たちに信用(?)に近いものが存在するからだと思う。そういうところで、社会は信用で成り立っているのだなと思う。袖触れ合うも…というが、同じ時間、同じ場所に偶然居合わせた人々。ちょっとした時間に起こる悲喜こもごも。とはいえもう少し通学時間が短い方がありがたいなと思いながら、今日も電車で通学する。 
執筆:2008/01/11 53
先日、企業金融論の講義で大変興味のある話を聞いた。

株式による資金調達だけをしている会社が、神様とジャンケン(賭け)をする。
掛けに投じる資産の金額を1単位とする。勝つか負けるか、すなわち50%で値が2になり、50%で値が半分の0.5になるとする。この場合の期待収益率は1.25である。
カジノでは、負けたら0.5とはならず0になるし、勝っても2倍になることは稀だから期待収益率は1倍よりも小さくなるようになっているそうだ。
日本競馬の期待収益率は約0.75という話だった。


  今回、私がコラムで書きたいことは、賭け事は経済学的に損するようにできているという話ではない。
現実の世界において上記のようなリスクとリターンの話はそこら中にあるなと思ったことだ。
何か1つのことを決めた段階でそこに、不利益となるリスク、利益となるリターンが生じる。
その確率はいろいろ。実際、アメリカの被疑者取り調べでは、こういった経済や数学の現象と被疑者の処遇を照らし合わせながら被疑者から有益な情報を得るなどという取り調べ方法もあるという話も聞いたことがある。

  さてここで例え話をする。
仮に日本が国際社会の要請のもと、日本国憲法に抵触するかもしれない事項について強引に法律を作り要請に応じたとしよう。リターンは国際社会の謝意や賞賛、他国との同盟強化といったことか。ではリスクは何か?最高法規の形骸化、政府の暴走、アジア地域からの不信感…、過去の繰り返しなどか。この場合、人ならある程度のリスクとリターンを選ぶとされている(ヒトは生物学的にリスクを好むらしい)が、一国はヒトと同じようにできるのだろうか。

  最後に私見だが上の事例で言えば、私はリターンは調整が利くが、この賭けではリスクが高すぎる。国に必要なのはローリスク・ローリターン型だと考える。
今の政府は若干ハイリスク・ハイリターン型だろうか?

  どのみち、賽は既に投げられた。
執筆:2008/01/04 ひっぱりもち
こんにちは。もうすっかり季節は冬ですね。寒い日々か続きますが、実はこの夏、僕は貴重な経験をさせてもらいました。その経験とは、地元の中学校での教育実習です。

  これから、ちょっと僕の実習生活を簡単に振り返ってみたいと思います。

  実習初日。僕はものすごく緊張しており、生徒の前で意味の分からない身振りをしながら自己紹介をしてしまいました。また実習の初めの頃には、自分が「先生」と呼ばれることにも違和感を感じました。自分が呼ばれていることはわかるんだけど、何だか自分が呼ばれているんじゃないような・・・そんな不思議な感じでした。

  しかし実習が進むにつれて、次第に生徒たちとも普通に話せるようになり、先生と呼ばれることにも抵抗感がなくなってきました。そして多くの生徒といろんな話をして、たくさんの思い出を作ることができました。

  一緒に部活で走ったり、放課後ひたすら恋愛トークをしてみたり、「牛丼先生」ってあだ名をつけられたり、・・・僕の家の場所を必死に探して、ついに探し当てた生徒まであらわれました。
「先生ってMの顔してるよね?」「先生って彼女いたことないでしょ?」などという意味の分からない質問も受けました。
「先生の字ってミミズみたいだよね。ユーキャンやりなよ」と言い、ユーキャンのチラシを渡してくれる生徒もいました。

  しかしそんな楽しい実習もつかの間、ついにお別れの時がやってきました。階段を上がって、最後のホームルームをやるために教室へ・・・。教室へ入ると、いつもは元気な生徒たちがなぜか静かでした。そして学級委員から記念品と「ありがとう」の言葉が。
  今までたくさんのお別れを経験してきたし、お別れの場で泣いたことなんて一度もないのに、なぜかこのときだけは、自然と涙が出てきてしまいました。

  生徒とのお別れもすみ、生徒たちが全員帰った後、しーんとなった教室で、生徒からもらった記念品や、個別に生徒からもらった手紙をゆっくりと見てみました。
  クラスでもらったその記念品は、一人ひとりの写真とメッセージがついた冊子でした。
  そうしたメッセージや手紙を読んでいると、「楽しかったよ」「また絶対に会おうね」「この思い出は一生忘れません」「絶対に先生になってこの中学に戻ってきてね」などの言葉が・・・

  僕なんて知識もスキルも経験もないし、生徒たちに何かを伝えることや教えることなんてできなかったと思います。そんな僕にこんなありがたい言葉をかけてくれるなんて・・・嬉しいような、不甲斐ないような、そんな複雑な心境でした。
  それどころか逆に、僕は生徒たちから、手紙や記念品、そして多くの忘れられない思い出という、たくさんの「たからもの」をもらうことができました。
  そしてそれだけでなく、僕はたくさんのことを生徒たちから教えられた気がします。

  僕がもらった手紙の中に、こんなことを書いてくれた生徒がいました。

  「思い出はお金なんかじゃ買えない価値がある。この思い出は一生消えないよ。」

  友達・夢・思い出を本当に大切にする心。様々な出来事に対する「楽しい」「うれしい」といった純粋な気持ち。そして「ありがとう」の言葉。大切だとは気づいていながらも、大人になると日々の生活の中で忘れがちな「たいせつなこと」も、生徒たちは僕に教えてくれたのです。

  残念ながら、僕は教師にはなれませんでした。来年からは他の仕事に就くこととなります。でも、この実習は無駄だったわけではありません。
  生徒たちからもらった「たからもの」と「たいせつなこと」を糧に、人に優しく、たくさんの思い出をつくりながら、自分の夢に向かって精一杯頑張っていこうと思います。そしていつの日か、今度は自分が何かを生徒に伝えられるようになりたい。
  こんなことを日々考えながらせわしない日々を過ごしている、今日この頃です。 
執筆:2007/11/23 つばくろう
来年の北京オリンピック、2010年の上海万博、日本の隣国中国は今まさに飛ぶ鳥も落とすような勢いで発展を続けている。


  初めて中国を訪れたのはまだ厳しい寒さが残る2005年3月の北京。学部の中国語教員による引率で1週間ほど滞在した。当時の具体的な印象はあまり残ってはいないのだが、北京郊外の世界遺産や天安門・故宮などを訪れて心に残ったのはそのスケールの大きさ。ただ単に建物の大きいとかだけではなく、中国の悠久の歴史を身にまとってたたずむその姿は言葉ではうまく形容できない存在感があった。そしてそこで生活している人々はとても元気だった。よく中国人は喋り方が喧嘩をしているみたいだと言われるが自分はそんな活気が溢れている中国人を嫌いではなかったし、むしろ日本人に足りない元気さを羨ましいと思う部分もあったと思う。恐らく中国に憧れていたのではないのかなと。だから一年間も留学してみようと思ったに違いない。

  それから月日は流れ2006年夏、北京大学で留学するチャンスをいただいた。留学前から、中国でたくさんの友人を作ってもっと中国を好きになりたいし、もっと中国を理解しようと思っていました。留学プログラムの授業がけっこう大変なもので、あれもこれもといろんなことに手を出すことは出来なかったけど、自分の得意分野であるスポーツで北京の学生達と、趣味の旅行で中国各地を回り現地の人たちと交流をしていろんな経験をしてきました。

  例えば、旅行中に乗った列車で弁当を買いに食堂車へ行った時、休憩中の乗務員達に囲まれて、彼らの携帯に入っていた日本語の着信音声の意味を聞かれたり、パスポートを見たことがないから見せてくれとせがまれたり。そして、見せてあげるとおまけだと言ってスープをご馳走してくれた。中国人は、一度楽しくお喋りや食事をした相手とはすぐに友達のような関係になれる。こんなちょっとしたことでも人間的な暖かさを感じることが出来て、今思えばいい記念です。

  しかし、一年もいれば楽しい経験ばかりでもありませんでした。繁華街の通りには貧困でその日を過ごすのも大変な親子が食べるもの・お金をもらおうと必死になる姿があり、地方の農村ではあまりに生活が厳しくて生きる希望を失ってしまったような農民に出会い、また、旅行にいった時には、たまたま乗ったタクシーの運転手に南京大虐殺の話題で散々暴言を吐かれ、また違う場所へ行った時にはボートに乗って観光をし、お金を払う時に、海の上で倍の金額を吹っ掛けられるなど散々なことも多々ありました。

  そして、いよいよ日本に帰る今年の夏。一年間滞在してみて、行く前まで自分が知っていた、考えていた中国と一年間過ごしてみて知り得た実際の中国の違いに自分は戸惑っていた。ただ、この一年間の経験を日本帰ってからもそのままにしておきたくはないし、日中友好のためにもっと役に立てることは出来ないかと考えていました。

  そして帰国のまさに当日、飛行機がまる一日遅れることになってしまい空港近くのホテルで待機を余儀なくされることに。その際、偶然にもある中国人の老人と相部屋になった。その方は、日中国交正常化後間もない時期に中国語の教師として東京へやって来て、以後30年もの長い間日中の架け橋となり、現在はある大学で中国語の先生をしていらっしゃいます。自分が留学生でこれから日本に帰るのですと話すと、「あなたのような若い世代がこうして中国に来て色んな経験をしてくれたことは中日の大きな財産ですよ。日本に帰ってからも頑張って下さい。」と励まされた。

  この時、少し霧が晴れたような気がした。そう、別に特別なことをする必要はない。自分が一年間経験してきたことは、他の人には絶対に真似できないことだ。自分の見てきたこと、感じたものそのままを中国に関心がある人に、いや、関心を持ってない人も少しでも本当の中国を知ってもらうことが自分に出来ることなのではないかと思えるようになった。

  初めて中国に出会ってからもう3年近く、さらに1年も現地に滞在したのもきっと何かの縁なのだろう。そして、これからも恐らく中国と自分の付き合いはずっと続くのだと思う。中国での留学はもう終わってしまったが、僕の留学の延長戦は日本でまだまだ続く…。 
執筆:2007/11/18 ふー
先日、ご縁があって、小学校の特別支援学級の宿泊学習に補助員として参加させて頂いた。知的障害をもつ子どもたちが、大自然の中でさまざまな活動をする、そのお手伝いをするというものである。


 私は今まで塾のアルバイトやボランティアでキャンプのリーダーなどの経験はあり、子どもと接する機会は多かったように思う。ただ、今まで知的障害を持った子どもたちと接した事がなかたので、正直最初は戸惑ってばかりだった。

 一言で「知的障害」といっても当たり前であるがさまざまだ。全く落ち着きがない子、うまく会話ができない子・・・。子ども一人ひとりみんな違う。
 そして子どもたちは私たち大人を本当によく見ている。毎回子どもたちと接する時に思うことだが、子どもたちは全力でぶつかってくる。

 私たち大人も全力でぶつからないといけないと思う。試行錯誤の繰り返し、体当たりの3日間だったように思う。たとえば注意の仕方にしても、ここは厳しく突き放して言った方がいいのか、手助けをした方がいいのか、そんなことを常に考えていた。

 3日間を通して印象に残っているのが、子どもたちのまっすぐさ、ひたむきさだった。
 初日に歩いた山道は大学生の私でも正直大変だったが、助け合いながら頑張る子どもたちの姿を見て、とてもびっくりした。

 3日間親元を離れて、子どもたちは本当に成長した。最初は私の手助けがなくてはできなかったことがいつの間にか3日目には私が何も言わなくてもできるようになっていた。本当に子どもはなんでも吸収してしまうスポンジのようだな、と思った。

 合宿の途中から、そして東京に帰ってきてから、ずっと考えていることがひとつあった。それは、もし自分の子どもが障がいをもって生まれてきたら、私はどう育てるんだろうか、ということである。
 決して人事ではない。私も小さい頃、医者にこの子は将来知的な障がいを持つだろうと言われていたそうである。

 客観的な事実として、障害を持った方々の就職先は限られているのが現状である。自分の才能を生かして成功されている方もいるが、ごく少数なのではないか。
 実際、子どもを特別支援学級に入らせるかどうかで親御さんにも葛藤があるそうだ。

 「かわいそう」

 私が昔障害を持った方々に対して持っていた感情である。

 かえってきてから本を読んでいたとき、「かわいそうと思っている限り、子どもに未来はない(親に対して)」というような事が書いてあり、はっとした。
 かわいそうというのは、自分から遠ざけるような、マイナスの感情であり、そこから相手を理解しようだとか、そういったことは生まれない。今まで、障がいを持った方と接した事がなく、どこか自分と遠いところの出来事だと思っていた私にはそれでよかったのかもしれない。

 何事も理解しようとしないと何も進歩しない。

 何が子どもたちにとって幸せな生き方なのか、それをこれからも私なりに考えていきたいと思った。 
執筆:2007/11/10 ずんだもち
私は人の笑顔が大好きである。

 そんな私の将来の目標は中学生のときからずっと“人の役に立つこと、誰かの笑顔を一つでも多く作ることが出来る仕事につくこと”だ。

 今アルバイトでケーキ屋さんで働いている。自分で言うのも気が引けるが、私には接客が向いていると思う。働いている間私は常に一つ目標を持っている。それは、私が接客している時間(ほんの数分ではあるが…)が、そのお客様の一日の中で楽しい時間・笑顔になれた時間であるように快く買い物をしていただけるようにすることだ。もしかすると思い出すこともないかもしれない。しかし、私は自分が「ありがとうございました。またどうぞお越しくださいませ。」といった後に、お客様が笑顔を見せてくれると本当に嬉しくなる。良かったと心から思う。お客様の笑顔は私にとっての働く糧である。

 1年以上このアルバイトを続けてきて色んなお客様を見てきた。

・母の日にお母さんのためにケーキと花束を買って帰るお父さんと子供さん
・「今日結婚記念日なんです。」と恥ずかしそうにいいながら、ピンクの可愛いブーケを持ってケーキを選ぶ若い男性(私と結婚してくださいといいたくなりました)
・バレンタインの前にお店の前で「どれがいいかな~」と真剣になやんでいるおばあちゃん(可愛くてきゅんとしました)
・以前接客して、話をしたお客様が「子供がうまれたんです。」といってわざわざお店まで私に見せに来てくれたこともあった。本当に嬉しかった。

 悲しいニュースも多い昨今ではあるが、日本人には温かい心があるのだなと感じる。

 多くのお客様は何か特別な時、楽しいことがあるとき当店をご利用になる。その何か特別なことの楽しさの一因になることが出来たら嬉しい。

 もちろん、日本中の多くの人が楽しむイベントであるクリスマスやバレンタインに働かなければならないという辛い面もある。だがお客様が楽しい時間を過ごすことが出来るならばそれでもいいと思っている。

 仕事を終えて外に出ると、デパートを囲むようにしてホームレスの方がダンボールで風よけをつくり寝ている。どうしたらこのような人々を含めみんなが幸せになれるような国、世界作りをしていけるのであろうか。いつも考えているがまだまだ私には分からない。これは私が一生をかけ考え取り組んで生きたい課題である。

 私の大好きな笑顔が日本中で、世界中で溢れている。そんな日がくることを心から願っている。不可能だと思われるかもしれない。しかし私は諦めたくはないのである。だからまず、自分の一番近いところでお客様の笑顔を作って生きたい。とても小さな積み重ねであると思うがこれからも続けて生きたい。

 稚拙な文章を最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。 
執筆:2007/10/26 ゾノ
一部のインスタント麺の価格値上げ。とうもろこしの東京穀物商品取引の価格高騰。

最近、食に関するニュースが紙面やテレビをにぎわせている。相次ぐ価格の高騰の要因は、原油や穀物の取引価格の高騰だ。 
なぜ、高騰しているのか。そんなに需要過多で、資源が枯渇しているのか。

確かにオーストラリアの二年連続干ばつにより、小麦の輸出量の低下がしきりに報道されている。しかし、一方では食用の需要ではない、 「バイオ燃料」による需要の急増という背景がある。
需要急増により、シカゴの商品取引所ではとうもろこしの取引価格が高騰している。それにともない、大部分を輸入に頼る日本でも、取引価格が高騰しているのだ。アメリカの生産者は、価格の高いとうもろこしをより多く 作付けし、その分大豆の作付け面積が減少している。さらに、生産力・収穫量を上げるために「遺伝子組み換え」が増加し、アメリカ産と うもろこしの73%が「遺伝子組み換え」。バイオ燃料による需要を満たすための手段として、今後その割合は増加していきそうだという。 

僕はこの報道を目にしたときに、目を疑った。
「えっ。73%も遺伝子組み換え。まじで。やばいじゃん」と思った。 

遺伝子組み換え食品は安全ではあるそうだ。でも安心かは僕自身その不安をぬぐえない。遺伝子組み換えとうもろこしや大豆を一生食べ続 けた人なんてまだいないわけだし、もし近い将来になって、「実は遺伝子組み換え食品には問題がありました」なんていわれたらどうしよ うもない。 

さらに、とうもろこしは牛や豚の畜産飼料。価格の高騰は、牛肉や豚肉の価格高騰も招く。そのうえ、今後「遺伝子組み換え」とうもろこ しが増加し、これをエサとして食べた「遺伝子組み換え」(飼料で育った)牛肉を口にする日が来るかもしれない。

もっとも、サラダ油には表示の義務がないから表示されていないものもあるが、多くは「遺伝子組み換え」の菜種から取られた油である。 国産菜種の自給率が1%未満で輸入に頼る日本ではやむをえないのかもしれないが。

食のグローバル化。自給率39%の日本。「でもそんなの関係ねぇ」ではすまされなくなってきてると僕は思う。 「カップヌードルが高くなって、財布的に痛い」以上の痛みが僕らを襲うかもしれない。

農林水産省のホームページに掲載されていた食料の未来を描く食料会議の第一回会議の資料10Pに掲載されていた国内農地のみで私たちの食事をまかなう場合 の献立は以下のとおり。 


朝食

茶碗1杯 (精米75g分) 
粉吹きいも1皿 (じゃがいも2個・300g分)
ぬか漬け1皿 (野菜90g分)

昼食

焼きいも2本 (さつまいも2本・200g分)
蒸かしいも1個 (じゃがいも1個・150g分)
果物 (りんご1/4・50g分相当)

夕食

茶碗1杯 (精米75g分)
焼きいも1本 (さつまいも1本・100g分)
焼き魚1切 (魚の切り身84g分)


現在の食生活とはかけ離れた献立となってしまう。
こんな食事で満足できる人はあまりいないだろう。

日本が今後、どのような食料戦略を持ち政策を実現していくか、僕ら消費者一人ひとりの問題である。

来る11月4日(日)に北海道合宿で食や農について取材研究した、水島ゼミの有志で「私たちの食のゆくえ~日本の食料問題を考える~」と 題したシンポジウムを行います。
詳しくは早稲田祭2007公式サイト企画紹介ページへ 


【シンポジウム】

私たちの食のゆくえ~日本の食料問題を考える~ 

 日時:早稲田祭2日目11月4日(日)14時~16時30分(予定) 
 場所:早稲田大学14号館102教室 

 コーディネーター:高野孟氏(インサイダー編集長、早稲田大学客員教授) 

 詳しくはhttp://www.wasedasai.net/2007/wasepedia/event/231
 
執筆:2007/10/20 ゆかっぺ
皆さんが学生時代に一番力を入れたことは何ですか?


勉学に、趣味に、サークル活動に、もちろんゼミに、それぞれだと思いますが、私は塾講師のアルバイトに力を入れたと胸を張って言うことができます。
大学1年の秋から始め、2年と2ヶ月続けたこのアルバイトに、ついに来月11月終止符を打つことになりました。
とは言いましても、優柔不断な私は、12月まで続けてほしい、辞めるのではなく教室に籍を置いたまま「休職」という形にしてほしいとの室長先生の押しに負けそうで、辞める時期がまだ確定していないのが実のところなのですが、とにかく長く続けてきたものに一つの区切りを打ちます。

思えば、先輩の先生方、同僚、そしてかわいい生徒たち、たくさんの人々に出会い、その出会い一つ一つが私を育ててくれました。
塾講師のアルバイトを続けてきた中で大きな転機となったのは、小学2、3年生のグループの授業を担当させて頂いたことです。
アルバイトを始めて5ヶ月目のことで、その頃の私は、「小学2、3年生から塾に通う必要があるのか?」という疑問を抱きながら、普段周りにいる人々よりもずっと年下の子どもたちを相手に悪戦苦闘する日々が始まりました。

私が一番驚いたことは、小学2、3年生の子どもたちは私が想像するよりも「子ども」だったということです。
自分では鞄から教科書とノートを出せない子、授業中でも喋りだすと止まらない子、問題が分からないと泣いてしまう子、カッとなるとお友達を叩いてしまう子・・・
本当にいろんな子どもたちがいましたが、中でも私を一番驚かせたのは、子どもたちが人と接するときの距離の近さです。気付けば頬と頬がくっついてしまいそうな距離にいることもあります。
そんな子どもたちの手を握ってあげたり、抱きかかえたりする先輩の先生の姿を見て、元来、人と一線の距離を画して接してしまう私は、子どもたちとの距離の取り方に不安を覚えた時期もありました。

ですが、一旦子どもたちの「懐」に飛び込んでしまえば、子どもたちは喜んで受け入れてくれました(と、思います)。
近づいてきた頬には自分から頬をくっつけにいったり、顔を両手で挟んだり、頭をなでたり、逆に子どもたちから頭をなでられたり・・・
普段の大人同士の付き合いでは決してしないような「コミュニケーション」ですが、大人の世界にも通じるものがあるのでは、とも感じます。
あまり親しくない人に対して頬をくっつけたり手を握ったり、物理的に近づくようなことはできませんが、自分から相手に精神的な距離を縮める努力が、相手の心を少しでも開かせることにつながるのだと、当たり前のことのように聞こえると思いますが、人付き合いが少々苦手な私には子どもたちにそのヒントをもらいました。

先にも書きましたように、私は生徒から頭をなでられたり、からかわれたり、あまり威厳のある先生ではありませんでした。
自分でも大変不思議なのですが、性根がいわゆる「いじられキャラ」のようで、教室の子どもたちにさえも同級生同然の扱いを受けていました。
塾の研修ではトレーナーの方から散々「生徒とは友達になるな」と言われていたのですが、私と子どもたちとの関係は「友達」以外の何物でもなかったと思います。

年が十以上も離れたかけがえのない友達と、塾という場所を通じて出会えたことに幸せを感じながら、彼らよりも一足先に大人になる私は、社会に出て彼らにいいバトンを渡せるよう、まずは社会に出るための準備を着々と進めなくてはならない時期にいます。
“today” を「トウダイ」と読んだ中1男子生徒の英語力に一抹の不安を感じつつ、残り少ない(予定)のアルバイト生活に全力を注ぎたいと思います。 
執筆:2007/10/14 放浪青年
僕はネパールの街を歩いていた。バックパックを背負って日本を出てから、もう二ヶ月近くが経っていた。


僕が旅に出た理由はいろいろあったのだけど、それを簡単にまとめてしまえば“もっと強くなりたかった”のだと思う。
付属の中学に進学したおかげでエスカレーター式に大学まで進むことができ、その大学では素晴らしく気の合う仲間に恵まれ、実家暮らしだから食うに困ることもない。そんなすごく恵まれた生活を長く続けてきて、……そう、きっとそれが怖くなったのだ。あまりに恵まれた今の環境に甘えてしまって、結局自分ひとりでは何もできないのではないか。そういう恐怖を、僕は漠然と持っていた。
だから僕は大学を休学して、日本を出ることに決めたのだ。たとえそこに気の合う仲間はいなくとも、食うに困る可能性のある場所だろうとも、むしろそういう場所をこそ、僕は旅してみたいと思った。途上国を回りながら日本とは違う何かを見ることで、今の自分にはない「本当の強さ」が手に入るような気がしていたのだ。

ネパールは、途上国ばかりを訪ね歩くこの旅において3つ目の国だった。最初に訪れたのがケニアの南に位置するタンザニア。次に降りたのが魅惑にして混沌の国インド。そんな旅を続ける中で途上国の現状を思い知らされ疲弊しきっていた僕は、安静を求めて逃げるようにしてネパールにやって来た。それが日本を出て一ヶ月半を少し過ぎた頃、今から一週間くらい前の話だ。

そしてその日、僕はネパールを離れてインドへ戻ることにしていた。事実ここは安静を得るにぴったりの国だったけれど、この数日後にはインドでボランティアの仕事を始めなくてはならない。だから、僕はインド行きのバスに乗るために首都カトマンズをバス停に向かって歩いていたのだ。

もう数時間後には去ってしまうこの街を目に焼き付けようと、僕は風景をじっくりと見ながら歩いていた。そうやってかなりの距離を歩いているうちにふと、似たような景色が何度も目に入ってくることに気づいた。

道の至る所に佇むストリートチルドレンが、ビニール袋に何かを吐いている光景。何をしているのだかわからず奇妙に思っているとき、一人の子どもがビニール袋から顔を離し、何事かを話すために口を開いた。その口元から覗く歯が――溶けている。あっと思うと同時に、僕は気づいた。
あれは“何かを吐いていた”訳じゃない。この子どもたちは、“シンナーを吸っていた”のだ、と。

カトマンズの西に位置するポカラという街で出会った日本人が、こういう話をしていた。
「知ってます? こっちのストリートチルドレンって、メシ食う代わりにシンナー吸うんですよ。何でだかわかりますか? あのね、ここでは、飯を買うよりもシンナーを買うほうがずっと安いんです。しかも、シンナーには空腹を忘れさせる効果がある。だから、金のない子どもたちはみんな飯を食うんじゃなくて、シンナーを吸って空腹を誤魔化すんです」

ネパールの(そしておそらくは他のいくつかの途上国でも)ストリートで生きる子どもたちは、飯を食べる代わりにシンナーを吸う。そのおかげで、彼らは空腹感を一時的に忘れることができる。そして、その対価として歯を失う。

なんという矛盾だろう。当たり前の話だ、「歯」というものは飯を食べるためにあるんじゃないか。それなのになぜこの子たちは、“飯を食べないがために”歯を失わなくてはならないのだ! 

僕は動揺を抑えられなかった。結局また同じだ。タンザニアでもインドでも見てきたように、その国に長く留まれば留まるほど、“恵まれている”日本では決して目にすることのない、この世界の深い闇を覗き込むことになってしまう。そしてただの無力な学生でしかない僕は、その悲惨な現実を前にして何もすることができないのだ。

ようやくバス停に着きしばらくその場でバスの到着を待ったあと、僕は目の前に現れた今にも壊れそうなバスに乗り込んだ。
このバスは僕をインドまで運んでいく。インドに戻れば、また新しい闇を覗くことになるのだろう。それはおそらくその次の国でも同じに違いない。そしてその次も、きっとその次も……。 
執筆:2007/10/06 みどり☆かわ
地方自治班の一員として、「夕張問題」とともに取り組んだ「ばんえい競馬問題」。私は合宿から帰宅後、改めて日本有数の馬産地・北海道浦河に足を運んだので、今年の夏休みのうち実に20日間を北海道で過ごしたことになる。すぐそばに大好きな馬がいる。とても幸せであった。そして考えることも多かった。

帯広での取材最終日の夜、新聞記者の方のご紹介により、ばんえい競馬関係者の方々の飲み会に招待していただいた。レースを終えたばかりの騎手、調教師、厩務員など様々な方たちがいらっしゃった。その中には、ばんえい競馬を扱った映画「雪に願うこと」の原作「輓馬」などで知られる作家、鳴海章さんもおられ、大変貴重な時間を共有することができた。「生きる」ということについて深く考えたこの時間を、私はよく思い出す。

飛び交うたくさんの笑い声、カニやホタテなどえらく豪勢な料理、少し肌寒い野外でのビール、いつのまにか解けた緊張感。こんなにぎやかな空気の中には似合わない私たちの対話。

「種馬が種馬としての仕事を終え、引退したらその後どうなるかわかるよね?」 馬は経済動物だ。機械化が進み、働く機会を失った今、馬は競馬や乗馬くらいにしか活躍の場が無い。特に、農耕馬のばん馬に至っては「ばんえい競馬」でしか生きることができない。競馬をできなくなった馬は食肉など様々な用途で処分されてしまう。悲しく、残酷な話ではあるがそれが現実だ。
「じゃあ、なんで処分するの?」
馬を一頭飼うのにもお金がたくさんかかる。生活していくためではないかと単純に考えてしまった。答えは違った。
「次の子供を産むためでしょ。子供を産むのにもお金がかかるじゃない。」
帯広でのたくさんの取材活動を通し、ばんえい競馬にもそれなりに詳しくなり、問題の本質もそれなりに掴んだつもりであった。しかし私は全く本質を掴めていなかったことに気づき、ショックを受けた。「馬と生きる」という根本的な視点が欠けていた。そこには馬と生活している人々がいるのだ。私は「ばんえい競馬問題」を外から観察していただけだったのかもしれない。関係者にとっても、自分たちと生活してきた愛馬を手放すことはつらいことだ。食肉用の馬なんて育てたい人は誰もいない、みんな走る馬を育てたいのだという。次の世代を生み出していくのにはお金がかかる。まさに直接的な「生」の連鎖によって馬は生かされているのだ。
「馬はペットじゃないんだよ。」
愛玩動物ではない、経済動物としての馬。そう、「馬と生きる」とはまさにそういうことなのだ。同様に「馬が生きる」ということもそういうことなのだ。ばんえい競馬では年間獲得賞金が100万円に満たないと、レースに出ることができなくなり、走ることのできなくなった馬の多くは処分される。ペットではないのだ。馬は走るために生かされ、生きるために走る。走るという一瞬の「生」のために、「死」の重みを背負いながら馬は生きる。だからこそ「勝つ」ことの意味は大きい。
「永遠なんてちっとも美しくないよ。俺はそう思う。」
私は酔って緩んだ唇をかみ締めた。花も枯れるからこそ、咲いた時美しい。競馬を何年も見ながら、馬が走るということが、こんなに美しいことだとは思わなかった。帯広での取材を思い起こしてみると、関係者の方々みんなの笑顔が美しかった。廃止という重みを背負っているからこその、「ばんえい競馬」を開催できるということの幸せがみなさんから伝わった。私の中で何かがガラッと変わった。私が今回の合宿で得た一番の収穫である。このような出会いを大切にしていきたい。

鳴海さんの著作「輓馬」の主人公の矢崎は「ばんえい競馬」を人生に例えた。ゆるい第一障害が20歳、成人の壁、その後の平坦路は突っ走る。そしてきつい第二障害が40代、男の厄年、どうなることだろう。これらの障害を乗り越え、人はばん馬のごとくゆっくりゆっくりとゴールを目指して生きていく。ばん馬が何百キロのおもりとともに「人間と馬の歴史」や「人々の思い」をソリに載せて走るように、人もたくさんの重荷を背負って生きていく。私にとって「ばんえい競馬」はそのように映った。
また、ある関係者の方が言った。
「最近の若い子は何事にもあきらめがちだ。あきらめることなく坂を上るばん馬を見て、何か感じ取ってほしい。」
ゆっくりとソリを轢くばん馬のすぐ横で、観客もそのペースで歩きながら応援できるようになっている。これも関係者の努力によるものだ。

どうか一度「ばんえい競馬」を見てみてもらいたい。やはり、映画「雪に願うこと」がおすすめだ。また、鳴海さん自身東京で暮らしていた経験があるせいか、「輓馬」や「いのちに抱かれて 楓子と大地の物語」にしても主人公が都会生活の経験を持っており、東京で暮らす私たちの、北海道、帯広、ばんえい競馬に対する距離感やギャップといったものがよく伝わってくる。馬と生きる人々の温かさを強く感じることもできるだろう。

忙しくなってしまった今の時代、変わらずとゆっくりと流れる時間が帯広にはある。帯広競馬場の開門時間前、芝生に腰を下ろし、お互いの近況報告などをしているのだろうか、会話が弾んでいるお年寄りたちの姿。「兄ちゃんたち、遠くから来たのかい。これで入りな。」と入場券を私たちにくれた。競馬場によって育まれる地域コミュニティを肌で感じ取ることができた。それはどこかやさしく、どこかなつかしいものだった。すっかり「ばんえい競馬」の魅力の虜になってしまった私はまた帯広に行くつもりだ。

外から眺めていただけの「ばんえい競馬問題」。合宿最終日にしてようやく、本質に近づくことができたような気がする。

 

 

 

執筆:2007/09/30 ひろ
「自分が働いている姿をイメージしたい」


エントリーシートに書き、面接でも強く語った。私にとって、「働く」ということは未知の世界。その世界に自分がいることがイメージできなかった。本を読んでも、話を聞いても実感がわかず、ぼんやりとしていた。よしっ、貴重な夏休みを使って、「仕事の現場」を自分の五感で体感してこよう。2週間のインターンの挑戦が始まった。

私は社会人の方と積極的にコミュニケーションを図ることを自らに課した。担当の社員さんはもちろんのこと、派遣やパートで来られている年配の方、取引先から出向している方などにも多くの話を伺った。仕事以外にも、お金や結婚や生き方など、吸収できるものは吸収したかった。「俺が転職しないのは、時間によって作られる人間関係を大事にしたいからなんだ」と語る同期のまとめ役のような方。「お金が貯められなくて結婚ができない」と切に語る方など、すべての話が新鮮で刺激的だった。

一番印象に残っているのが、部門での会議に同席させていただいたこと。ある社員さんは懸念される点や、少しでも疑問に感じたことを質問し、案を提示した人がそれに対して答えている。この何気ないサイクルをすることで、まわりの人が疑問にすら感じず、流していた点を注目させ、みんなの理解を共通のものにできる。“無知の無知”を減らしていく質問の意味。こうした質問を意図してできる社員さん。まとめ役の方の場作りから始まって、学生と社会人のレベルの差が如実に現れていた。会議の途中に意見を求められて、ありふれた答えしか言えなかった私は未熟で情けなく、自分を奮い立たせる絶好の種となった。「あの土俵で議論がしたい」この思いを忘れることなく、これからのグループワークの取り組みも意識していきたい。

それにしても、人生で一番「働く」ことについて考えた2週間だった。当初の目標に対する答えを言えば、イメージは形成できかかっているが未完成。2週間前に比べれば、地に足をつけて、現実的に働くことを考えることができるようになった。しかし、イメージを固めてしまうことは自分の可能性を狭めてしまう側面も持つことから、確固たるものを作るのはまだ早いとブレーキをかけている自分を発見した。実は、これくらいぼんやりとしたものが正解なのかもしれない。

「働く」という人生の1つのファクターを垣間見ることができた私は、まだまだ1合目を通過したくらいであろう。就職活動が本格化するまでに、せめて3合目ほどまでは登りたい。当然、その一歩一歩は自分で進めていくしかない。これまで以上の問題意識と主体性をもって。人生という名の大きな山はまだまだ険しい。しかし、悩んで苦しんだ後にこそ開け、自分の目に飛び込んでくる新たな景色。これが見れるから、人生の山登りはやめられない。 
執筆:2007/09/16 ミツル
広大な緑に、甘い香りの夕張メロン。行政や議員の方、病院の医師や入院患者の方など、さまざまな方への取材に、自然に囲まれた木造小屋での深夜の議論。


今夏のゼミ合宿、水島ゼミ「地方自治班」の大きなテーマは「今後の夕張を考える」。財政再建団体に指定された北海道・夕張市を訪れた。財政破綻の原因、現在及んでいる影響、今後の可能性などを探った。

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財政再建計画を受け、夕張は当分の間、行政サービスの縮小を余儀なくされた。
その中でも、医療の問題は心に強く残った。財政破綻前の夕張市立総合病院は診療所に縮小し、人工透析は採算が合わないという理由で受け持たなくなった。では、もともと市立総合病院に入院していた透析患者の方々はどうなったか。彼らは転院先として隣町などの病院に移され、現在も治療を続ける。

栗山町という夕張市の隣町の病院で、人工透析のために入院する患者の方に取材させていただいた。「50年以上住み慣れた夕張市に戻りたい」「でも私を追い出したあの病院には戻りたくない」複雑な胸中を涙ながらに語った。夕張市までは車で30分。「だったら近いじゃん」という私の仮説との温度差は、「故郷」への想いの違いによるものであろう。

財政破綻の原因は、身の丈に合わない補助金を出し続けた国にあるのか、無謀なハコモノ行政を展開し続けた市にあるのか、自治意識の不足した市民にあるのか。「誰」とも特定できない複雑な構造がある。しかし、これだけは確実に言える。破綻の責任を「取らされている」のは、一人ひとりの市民。彼らにできるのは、やり場のない「怒り」が胸中で霧散するのを待つことだけなのか。


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栗山町での取材が終わった1時間後、今度は夕張医療センター(旧夕張市立総合病院。現在民営化された。)の再建のためにやってきた、ある医師に取材させていただいた。「予防医療」の徹底により病人そのものを減らす、という考えの下、それを夕張で実践するべく動いている医師だ。

「予防医療」のためのコストが増えるので、また、もともと負債を抱えた自治体の病院であったので、どこか別の部分でコスト削減しなくてはならない。その一つが、人工透析である。人工透析を夕張の病院が受け持たなくなったことに関して「赤字だったのだからその結論は当然である。そもそも自治体の多額の負債の責任の一部は市民にあるのだから、それに関して文句を言う患者のほうが、どうかしている。自前で採算が取れない医療はやってはいけない。」と持論を語っていた。

「医療分野に関しては、ある程度の行政からの補助金が必要なのではないか」という私の質問に対しては「そんなことを言っているから夕張は財政破綻したのだ。『身の丈に合わない』医療は絶対やってはいけないし、それに文句があるのなら金のある都会に引っ越すべきである」と言った。


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ここに、栗山町の入院患者の方とこの医師の間に、相反する「矛盾」が存在する。「財政的に苦しくても、医療分野には補助金を出してもらって人工透析をしたい」という栗山町の入院患者。対して「財政が苦しい自治体に住んでいるのだから、補助金出して人工透析などとんでもない。そんなにしたかったら都会に引っ越すべき」という医師。この二つの「矛盾」をどう考えるか。

確かに、補助金を出して医療を手厚くすれば行政の借金は膨れ上がり、財政破綻に至ったのと同じ道のりを歩みかねない。

しかし、私がまったく立場の違う今回の二人の話を聞いて感じたのは、同じ人間であっても何かを決定するだけの「力」を持つ者、持たない者との「対照性」であった。医師の論は筋としては通る。が、彼は夕張市の医療形態を「決定」する「力」を持つ人物である。彼の意思がかなりの力をもって夕張の医療に反映される。対して、栗山町の病院に転院を余儀なく強いられた透析患者の声は、医師のそれに比べ非常に「弱い」。


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「力」を「持つ」ものが「持たざる」者の声に向き合わねば、「独裁社会」への道を歩み始める。声に向き合った結果としての政策であるべきなのに、医師の患者に対する「どうかしてる」等の発言から、力を「持たざる者」の声に真摯に向き合った形跡はまるで感じられなかった。

夕張市民のこの医師への評判は、概して「良好」だそうだ。透析等の「重い」程度の病状を患っていない、「多数派」の住民にとっては、「予防医療」という彼のコンセプトは素晴らしく聞こえるはずだ。では、「少数派」の透析等、「重い」程度の病状を持つ患者の声は「少数派」というレッテルとともに「どうかしてる」と切り捨てるのは、いかがなものか。


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私は夕張の地において、「強き者」と「弱き者」の矛盾を見た。そこでは「弱き者」は涙を流した。医師の話を聞いていたとき、栗山町の患者の顔が浮かんで生じた「怒り」は、「無力」という言葉とともにやり場なく心に留まり続けている。この「怒り」に「力」を持たせて現実に反映させていくにはどうすればいいのか。合宿は終わりを迎えない。
執筆:2007/3/22 Xiangping
中華人民共和国に生きる



 中国留学も早や半年が経ち、残す半分となった今、自分のこれからの将来について日々深く考える。周りの同期も就職活動真っ只中、先輩方々も間もなく卒業というこの時期ということも、一層迫り来る現実として感じさせる。自分と中国との最初の出会いは大学一年時冬の北京、その時初めて中国という土地に足を踏み入れてから、およそ2年近くがたったであろうか、おおよそ日本人が中国に来て驚くべきことは経験したように思う。中国で語学を学び、語学を通じて多くの中国人を知り、今こうして、ようやく日本と中国の本質的な違いが身をもってわかるようになり、一つ気持ちの整理の意味も含め、コラムを書こうと思うに至った。

 タイトルにもあるとおり、自分は現在、中華人民共和国に生きている。国家名にも表れている通り、中華人民の56もの民族、約13億人の中国人が共に平和に生きている国家ということを表している。この意味は、実際に中国で暮らし、中国大陸の多くの土地場所へ実際に足を運んでみて初めて実感できることとなる。56もの民族は、国語(北京語)以外にそれぞれ自らの言語を話し、また文化伝統を守るべく、世世代代同じような生活に誇りを持って、まさに平和に暮らしている。ちなみに日本は島国であり、また単一民族であるとよく言われることからも、日本人にとっては、とても民族という概念に実感をもって感じることは難しいかもしれない。

 今述べた日本の島国であり単一民族であるという特性と、中国の大陸、56もの民族と約13億人という人口という特性が、日本と中国とを完全に相反する社会としているように感じる。ここで、その日中の社会の比較を長々とするつもりはない。しかし、今敢えて挙げた日中の特性の違いこそが全ての起因として、日常生活上における些細な価値観・思考の違いのほとんどを説明できるのではないかと思う。

 中国で暮らしてわずか半年ではあるが、自分にとって生きやすいと感じるのは、日本の均一で物質的に恵まれた社会ではなく、中国の雑多で貧しいが精神的に豊かな社会であると感じてしまった。当たり前ではあるが、ここ中国ではいわゆる日本の常識・掟は通用しない。今まで20年間余り、盲目的に信じてきた日本の常識から、全く日本の常識では動いていない社会を初めて知り、きっと幾分か解放された気分になっているのだろう。日本には無い中国の良い部分を知り見つめる中で、その反面として、日本の常識という名の社会に対して嫌気を感じるようになってしまった。

 さて、日本人から見て、中国人とはどのように映っているだろうか?日本より文明の遅れた、13億人もの貧しい国家の人々という認識は、多かれ少なかれ日本人の中国人に対する認識であろうと思う。恥ずかしながら、2年前に初めて中国北京を訪れる前は、自分もせいぜい中国はこの程度だろうと考えていた。今から思えば、何も知ることなく決め付けてしまう、随分と傲慢な典型的な日本人だったと反省するばかりである。今自分が心底忌み嫌う日本人のそういった部分を、かつて持っていたことに、また今なお自分の中に存在することに、なんと言うかある種自分もやはり日本人なのだという諦めの念も残る。

 自分にとって、中華人民共和国という国は、まだまだ学ぶべきところの多い場所に違いない。それは単なる知的好奇心だけでなく、人間としてたくましく生きていく上でかくあるべき、ということを多く多く教えてくれる場所であり、それはまさに大陸そのもの、限りなく広大な大地であるように感じる。

 本来ならば、まだまだ自分の思っていることを多く書きたいところだが、あまり直接的に表現するのは好ましくないように思う。まだまだ日中両国民の価値観・思考の違いは、それぞれの日常生活に基づいている以上、早々簡単に両国民が理解し合える、埋められるような段階に無い。日々漠然と感じていることは既に自分の中では、十分に言葉として整理され、また自分の思っていることがありのままに叙述されている、ある一冊の新書を発見したこともあり、自分の中での中国理解は一線を越えたかと自己完結している。

 申し訳ないことに、この文章は既にコラムと呼ぶにはふさわしくなくなってしまったかもしれない。ただ、今回この場を利用して、水島ゼミ生のみんなに自分が中国に対してどう思い、感じているかの一端を思っていただけたら幸いと思い、徒然ながらも漠然を良しとして書き連ねるに至りました。

 最後に、残りの半年間、自分の大好きな中国北京で中国語を学べることに、とても喜びを感じる。タイトル『中華人民共和国に生きる』、これはまさに自分の将来、人生における座標軸そのものであろうと思う。 
執筆:2007/3/9 ミツル
▼「合格しました!!うれしいです!!」嬉しい知らせに携帯電話が震えたのは昨日のこと。 昨夏の新聞社でのインターン研修中に単独取材に応じてくれた、浪人生からの合格報告だった。 今春から愛知の大学の教育学部に通い、希望の進路、教師への道を歩み始めるということだ

▼4年前の春、当時高校3年生だった私は受験した大学全てに不合格。 「河合塾千種校」生として1年間を過ごすことが決まった。 将来の明確な「夢」が持てない私の前に、膨大な量のテキストが積まれる。 自分にとって、それがどんな意味を持つのか。 答えが出ない中、それでも「合格」を絶対化することでひたすらに勉強した。 私にとって、河合塾千種校は「己との格闘」の場だった


▼時は経ち、昨夏。 「好きな場所で若者の声を拾って来い!」 インターン2日目にして単独取材を任された私が、迷いなく選んだ場所は、河合塾千種校であった。 2年半の時を経て「『夢』らしきもの」をつかんだ現在の自分と、過去の自分を対話させたかった

▼そこで冒頭の少年と出会った。 「現在の少年問題は、注がれてきた愛情不足が原因だと思う。 子供たちに愛情を注いであげられるような先生になりたい。」 明確な「夢」を持つ彼は、しかし、迫り来る入試本番に不安を感じる、4年前の自分と変わらない19歳であった。 「『己との格闘』に勝って欲しい!」その思いを胸に書いた記事は、2週間後の夕刊に掲載された。 「ありがとうございました!!素敵な新聞記者になってください!!応援しています!!」という彼からのメールは、私の2年半に対する最大の褒め言葉だった。
彼との出会いは、浪人という過去、学生という現在、そして記者という未来を、一本の線で結んでくれた

▼浪人時代という「格闘」は、人生のほんの一部。 しかし、河合塾千種校で見た「闘う少年」は、私にとってのあの1年をも肯定してくれるものだった。 迷いなく選んだ「河合塾千種校」がもたらした出会いは、「闘い」という接点がくれた「必然」だったのだろう。 「おめでとう!!素敵な先生になれるよう、東京から応援してます!!」